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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「清流」 清流

小説「新・人間革命」

前後
1  清流(1)
 言論は、人間の人間たる証である。
 暴力、武力に抗して、平和を築きゆく力こそ言論である。
 広宣流布とは、言論によって、精神の勝利を打ち立て、民衆の幸福と永遠の平和を建設する、新しきヒューマニズム運動といえる。
 一九六三年(昭和三十八年)七月二十八日、山本伸一は、東京・神田の共立講堂で行われた、言論部の第一回全国大会に出席した。
 この言論部は、二年前の六一年(同三十六年)五月三日、文化局の誕生とともに新設された部で、部長には、青年部長でもある秋月英介が就いていた。
 当初は、男女青年部の代表によって構成される言論部第一部と、文筆の専門家による言論部第二部を置くことでスタートを切った。
 その後、婦人部の要請もあり、″女性の声″を社会建設の大きな力にしていこうとの趣旨から、婦人部のメンバーで構成される言論部第三部が誕生した。
 さらに、言論部第二部は、壮年の言論部となり、文筆の専門家も、それぞれ各部の言論部に所属することになった。
 また、首都圏だけでなく、全国の各方面にも順次、言論部が設置され、本格的な活動が展開されていったのである。
 六二年(同三十七年)の十一月には、言論部の機関誌として月刊雑誌『言論』が創刊された。
 これは言論部員の意見の発表の場として発刊されたもので、時事問題への論評もあれば、マスコミの学会への批判に対する鋭い反論もあった。
 山本伸一は、この第一号に「創刊のことば」を寄稿した。
 そのなかで彼は、「文は武よりも強し」との信念のうえから、東西冷戦も、武力の抗争も、「正義の言論戦」によって方向転換させることが可能であると宣言している。
 さらに、日蓮大聖人が民衆救済の大慈悲をもって著された御書こそ、「民主主義の大原則たる言論戦の火ぶたを切られた証左である」と強調。
 「今こそ広宣流布のため、民衆救済のため、勇ましく正義の言論の剣をとって前進しようではないか」と訴えたのである。
 言論の真実の担い手は民衆である。
 しかし、民衆が自ら、ものを考えることをやめ、自身の権利と尊厳を守るための言論を放棄してきたのが、日本の現実といえた。
 伸一は、言論を民衆の手に取り戻すことを、この言論部の使命と考えていた。
2  清流(2)
 言論の力は大きい。それは、人の意識を変え、時代を変える。
 ゆえに、民衆の支配を目論む権力は、言論を意のままに操り、言論の暴力をもって、改革者を社会的に抹殺してきた。
 マスコミを使って、デマを流し、″極悪人″や″異常者″″狂気″のレッテルを張り、改革者への嫌悪と恐れをいだかせるというのが、彼らの常套手段といってよい。
 民衆の「喝采の時代」を開かんとする創価学会もまた、この言論の暴力に晒され続けてきた。
 それを打ち砕く、正義の言論を起こさずしては、真実は歪められ、踏みにじられていく。そうなれば、民衆の永遠の勝利はない。
 山本伸一が言論部の育成に力を注いできたのも、まさに、それゆえであった。
 彼は、言論の勝利というと思い出す、アメリカの独立に関する話があった。
 ――一七七六年の一月、アメリカのフィラデルフィアの町で、『コモン・センス(常識)』というパンフレットが出版された。
 イギリスの植民地であったアメリカが、有名なレキシントンとコンコードの戦いで、独立戦争の最初の砲声を轟かせて、九カ月後のことである。
 このわずか四十七ページの小冊子が、アメリカを独立へと鼓舞する、大きな力となっていったのである。
 当時、イギリスの統治下にあって、公然と独立を口にすることは、官憲の厳しい追及を覚悟しなければならなかった。
 しかも、アメリカ住民の世論も、独立派はまだ三分の一にすぎず、三分の一が国王派、三分の一が中立派である。
 多くの人びとは、アメリカの自治を獲得しただけで満足し、独立には懐疑的であったり、時流を傍観するという態度であった。
 そのなかで、この小冊子が叫びをあげ、アメリカの独立は、もはや″常識″の帰結であると訴える。
 「大陸が永久に島によって統治されるというのは、いささかばかげている」
 「おお! 人類を愛する諸君! 暴政ばかりか暴君に対しても決然と反抗する諸君、決起せよ!」
 「公然の断固とした独立宣言以外には、現在の事態を速やかに解決できる道はないのだ」
 決して難解な言葉ではなかった。誰にでもわかる、平易な言葉で、明快に、ほとばしる情熱をもって、独立の必要性を説いたのである。
 小冊子の著者は匿名で、「一イギリス人」とだけ印刷されていた。
3  清流(3)
 やがて判明した、『コモン・センス(常識)』の著者は、トマス・ペインという三十九歳の編集者であった。
 二年前、イギリスからアメリカに渡って来たばかりの、社会的には全く無名の人物である。
 だが、この小冊子は、たった三カ月の間に十二万部も売れ、大反響を呼ぶことになる。
 まだ、人口が二百五十万ほどの独立前のアメリカである。十二万部は驚異的な数字といってよい。しかも最終的には、五十万部に達したといわれる。
 『コモン・センス』を手にした人びとは、心を射貫かれ、独立にアメリカの未来の旭日を見た。
 人びとの頭のなかで、旧来の″常識″は音を立てて崩れ去り、新しい″常識″が打ち立てられていったのである。
 イギリスのある新聞は、その反響を、こう報じたという。
 「読者が増えれば増えるほど、考えを変える者が多くなっている」
 後に初代大統領になったワシントンは、この小冊子の「正当な主張と反駁の余地のない論理」を評価し、早晩、「独立の妥当性に軍配を上げかねて途方にくれる者はいなくなるでありましょう」と述べている。
 農民や貧しい都市住民たちも、競って『コモン・センス』を買い求め、続々と独立派に加わっていった。
 次のような感想を記した市民もいた。
 「数週間前まで、独立を取り巻く途方もない障害に身震いしていた民衆の心情」は、一気に「あらゆる障壁を飛び越えてしまった」と。
 この小冊子が、アメリカの民衆の胸に、″独立は必ずできる″という確信を与え、立ち上がる勇気を呼び覚ましたのだ。
 決起した民衆の力は大きい。もう何ものも、その潮流を止めることはできなかった。アメリカ独立宣言が採択されたのは、この一七七六年の七月四日のことであった。
 独立は、時の趨勢であったのかもしれない。
 だが、無名の一市民が書いたこの小冊子が、絶大な援軍となったことは間違いない。
 「注目すべきは主張そのものであって、筆者ではない」との、ペインの言葉の通り、言論の力が歴史を動かしていったのだ。
 権力の横暴や社会の矛盾に対し、民衆が正義の声をあげる。そこにこそ、民主の基礎がある。
 「真実」をもって「悪」のまやかしを打ち破るところから、未来は開かれる。

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