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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「布陣」 布陣

小説「新・人間革命」

前後
1  布陣(1)
 川には源がある。御聖訓には「源遠ければ流長し」と。
 創価学会にも精神の光源がある。
 それは、初代会長牧口常三郎と第二代会長戸田城聖が織り成した、燦然と不滅の光を放つ、師弟の不二の道である。その精神が脈打っている限り、広宣流布の流れは、永遠に世界を潤し続けるであろう。
 軍部政府の弾圧によって逮捕された牧口は、一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、秋霜の獄舎で七十三歳の生涯を閉じた。
 人類の幸福と世界の平和のために、大仏法を掲げて、魔性の権力と戦い抜いての殉教であった。尊き最期であった。
 牧口とともに逮捕された戸田は、高齢の師を思い、独房のなかで、こう祈り続けた。
 「どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」
 しかし、最愛の師は、生きて獄門を出ることはなかった。牧口の死を知った戸田は、憤怒に震えた。そして、生きて牢獄を出た戸田は、「妙法の巌窟王」となって、魔性の権力への「復讐」を誓った。
 彼の「復讐」とは、師の牧口の正義の証明である。恩師の遺志を受け継ぎ、広宣流布への大河のごとき流れを開くことであった。
 それは、この地上から、「悲惨」の二字をなくし、権力や武力、暴力に、人間の精神の力が勝利する、人間復権の時代を開き、世界の永遠の平和を築き上げることであった。
 戸田もまた、師の牧口の心を体して、広宣流布に生涯を捧げんとした。死せる師も、生きて出獄した弟子も、ともに殉難の覚悟を定めた獅子であった。
 「獅子の道」とは、正義に生き抜く「師子の道」である。何ものをも恐れず、一人立つ「勇者の道」である。邪悪を打ち砕く、「勝利の道」である。また、どこまでも民衆を守り抜く、「慈悲の道」である。
 この戸田の心を分かちもつ、人びとの連帯を築き、崩れざる幸福と平和の建設に立ち上がった、獅子の集いが創価学会である。
 入会してくるメンバーの多くは、病苦や経済苦、家庭不和などの苦悩をかかえた、悩める民衆であった。
 その民衆が、自らの宿業と格闘しながら、地涌の菩薩の使命に、まことの人間の使命に目覚め、社会建設の「主役」となってきたことに、創価の広宣流布運動の卓抜さがある。
 また、そこに大乗仏法の精神がある。
2  布陣(2)
 山本伸一は、会長就任三周年となる、五月三日の第二十五回本部総会を前にして、今なすべきことは何かを考え続けていた。
 この五月三日は、伸一が第一の指標と定めた、恩師戸田城聖の七回忌に向かう総仕上げの一年となる。
 彼が会長就任時に掲げた目標は、着実に成就されつつあった。
 会員三百万世帯は、五カ月前に達成し、今や学会は三百三十余万世帯となっていた。また、総本山に建立寄進する大客殿も、着々と工事が進み、来春の完成を待つばかりとなっている。
 更に、新学会本部もこの八月に完成し、九月初めには落成式が行われることになっていた。
 一方、学会が母体となって誕生した、公明政治連盟も大きな飛躍を遂げ、地方議員は千名を上回るまでになった。
 政治を民衆の手に取り戻し、民衆が主役となる社会を建設するための大きな流れも、着実につくられていった。
 伸一の会長就任以来、学会は上昇に次ぐ上昇を重ね、大発展していることは間違いなかった。
 それだけに、次の飛翔のためには、更に、各地に本部、総支部の布陣を整え、組織の強化を図る必要があることはわかっていた。
 しかし、伸一は、もっと重要な課題があることを痛感していた。
 それは、殉難をも恐れず、民衆の幸福と人類の平和に生涯を捧げた、先師牧口常三郎と恩師戸田城聖の精神を、いかにして永遠のものにしていくかということであった。
 彼は、学会が発展するにつれて、幹部のなかに、その精神が希薄になっていきつつあることに、憂慮を覚えたのである。
 たとえば、学会のため、広宣流布のために、自分が何をするのかではなく、できあがった組織の上に乗っかり、学会に何かしてもらうことを期待する幹部が出始めていることを、彼は感じとっていた。
 また、学会のなかで、より高い役職につくことが、立身出世であるかのように勘違いし、いわゆる″偉くなる″ことに執心し、人事のたびごとに一喜一憂している者もいた。
 名聞名利の心をいだき、自分のために学会を利用しようとするような者が幹部になれば、会員が不幸である。やがては、学会自体が蝕まれ、内部から崩壊していく要因となることは必定である。
 伸一は、未来の大発展のために、この兆候の根を断ち、まず幹部の胸中に、学会精神をみなぎらせることから始めようと、密かに決意したのである。
3  布陣(3)
 五月三日、第二十五回本部総会の日を迎えた。
 山本伸一が第三代会長に就任した、あの三年前の本部総会の日と同じく、東京地方は、朝から、五月晴れの空が広がっていた。
 入場完了は午前九時となっていたが、会場の東京・両国の日大講堂には、早朝から多数の参加者が集って来た。
 午前七時、アメリカ総支部、東南アジア総支部など、海外のメンバーが入場すると、既に、人で埋まった場内から、大きな拍手と歓声がわき起こった。
 ロサンゼルス支部、香港支部、バンコク支部、サイゴン支部、ジャカルタ地区などと書かれた幟を立て、喜々として胸を張り、入場して来る海外のメンバーの姿を目にした参加者は、誰もが広宣流布の世界的な広がりを実感していた。
 山本会長の初の海外訪問から二年半、世界広布は夢から現実となり、眼前にその姿が展開されているのである。
 午前九時四十五分、開会が宣言され、学会歌「革新の歌」の大合唱のなか、学会本部旗を先頭に、山本会長が入場した。
 「開会の辞」に続いて、副理事長で指導部長の関久男が、この一年間の学会の歩みを報告したが、すべてにわたって大発展の足跡を刻んでいた。
 会員世帯数は、前年の五月には、二百六十万世帯であったが、それが三百三十数万世帯となり、一年間で七十数万世帯の増加を見たのである。
 組織の面では、この一年間で、四本部、二十一総支部、百三十五支部が誕生。
 特に海外の発展は目覚ましく、南米、ヨーロッパの二総支部が誕生したのをはじめ、サイゴン、ラングーン、ペルー、ボリビア、ハワイ、ドイツ、ニューヨーク、パリ、シアトルの九支部が、順次、結成された。
 しかも、アメリカのロサンゼルスには、会館も設置されたのである。
 一方、学会がこの一年間で建立寄進した新寺院は十五カ寺となった。
 更に、文化局では、学芸部を発展的に解消し、新たに学術部と芸術部が発足したのである。
 参加者は、これらがすべて、わずか一年間のうちになされたことであると思うと、感慨を新たにするのであった。
 まさしく、一年一年が、昇りゆく旭日のごとき、未聞の広布の大前進であり、大飛躍である。
 学会には勢いがあった。勝利の喜びが、次の勝利を生む。そして、それが、更に大勝利への勢いと活力となっていったのである。

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