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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「操舵」 操舵

小説「新・人間革命」

前後
1  操舵(1)
 吹雪が、列車の窓ガラスを激しく叩いていた。
 それは、闇のなかから、次々と襲いかかる白い魔物のようでもあった。
 車内のどの顔にも、疲れが滲んでいた。乗客は、空腹をかかえながら、動き出す目途さえ立たぬ列車のなかで、ただひたすら、待っているしかなかった。
 一九六三年(昭和三十八年)一月二十四日の夜のことである。
 この列車が新潟県の、ここ宮内駅に停車してから、既に十六、七時間が経過していた。
 団体列車であるこの車内には、静岡県富士宮市の総本山に登山し、新潟駅まで帰る、新潟支部と羽越支部の会員約九百人が乗車していた。
 一行は、二十三日の午後三時ごろ総本山を発って、午後八時ごろ、東京の上野駅で新潟行の団体列車に乗り換えた。
 上野駅で、豪雪のため大幅にダイヤが乱れているとのアナウンスがあったが、しばらくは、列車は順調に運行していた。予定では、二十四日の朝、新潟駅に到着することになっていた。
 やがて、乗客が眠り始めたころ、列車は、長岡駅から七駅手前にある上越線の小出駅で停車し、なかなか動き出さなかった。
 次第に、皆、不安がつのり始めた。メンバーの多くは朝から仕事に出なければならない人たちである。
 一時間ばかりして、ガタンという音とともに、ようやく列車は走り始めた。
 皆、胸を撫で下ろした。
 だが、あえぐような、遅い進み方である。
 一時間ほど走ったころ、長岡駅の一つ手前の宮内駅で、再び列車は止まった。二十四日の午前三時半であった。外は猛吹雪である。
 今度は、いつまでたっても、列車は止まったままであった。
 新潟支部長で列車の責任者であった江田金治は、輸送班の責任者とともに、宮内駅の駅長室に向かった。
 駅長の話では、北陸線、上・信越線などの随所で、豪雪のために列車がストップしており、復旧については、まったく予測がつかないとのことであった。
 江田は、ともかく、皆の食事の手配とともに、車内での待機が長時間に及ぶようなら、乳幼児や高齢者を旅館に宿泊させるように、駅長に要請した。
 食事は駅弁を確保してくれることになったが、旅館は既にいっぱいであった。
 更に彼は、各車両の責任者を集め、事情を説明した。そして、最後まで登山会を無事故で終わらせるために、連携を密にし、団結第一で、すべてに対処していこうと訴えた。
2  操舵(2)
 朝になると江田金治は、メンバーに、駅などの公衆電話を使って、家族や会社と連絡を取っておくように指示した。
 そして、車内で、皆で朝の勤行をした。やがて、駅弁が届いた。勤行をし、弁当を腹に入れると、メンバーは元気になった。
 江田は、各車両ごとに、御書の勉強会をもつことにした。車内の人びとは意気揚々としていた。
 「朝から御書を勉強できるなんて、夏季講習会に参加してる気分だな」
 「冬だから、″冬季講習会″だ。だけど、講習会なら二泊三日になる」
 皆、愉快そうに話をしていた。
 雪は一向にやむ気配はなかった。周囲の民家は雪に埋まっていた。
 昼に、もう一度、駅弁が配られた。だが、それが最後であった。豪雪ですべての交通機関がストップしており、弁当の材料も底をついてしまったのであろう。
 その後、駅長の配慮でパンが配られたが、この状況下では、古いパンしか手に入らなかったようだ。パンの中のジャムなどが腐っているものもあった。
 もはや、駅長もなす術がなかった。
 江田は、なんとしても、皆の腹だけは満たさなければならないと思った。彼は長岡支部の支部長の竹川正志に電話し、無理を承知でメンバーの食事を手配してもらえないかと頼んだ。
 一言に食事といっても九百人分である。おいそれと準備できる数ではない。しかし、竹川は、二つ返事で引き受けてくれた。
 吹雪は、ますます激しくなっていた。
 この豪雪は「三八豪雪」といわれ、北陸・信越地方に、記録的な被害をもたらし、新潟県下の被害も大きかった。
 新潟県豪雪害対策本部がまとめた「豪雪害の状況」(一月三十日調べ)によれば、降雪は一月二十五日には長岡市で九三センチメートル、入広瀬村では一四〇センチメートルを記録している。
 雪は、更に降り続け、三十日までの最大積雪深は、長岡駅では三七〇センチメートルに、入広瀬駅では、なんと五一〇センチメートルに達したのである。
 この雪で、二十三日夕刻には、県内で百四十四本の列車が運休し、二十六本の列車が立ち往生している。
 また、一月三十日の時点で、県内の死者九人、行方不明一人、全壊した建物九十八棟、半壊九十五棟、河川や下水道の閉塞による床下・床上浸水は百九十三棟となっている。
 このほかに農作物や、鉄道、道路の不通による商工業の被害も甚大であった。
3  操舵(3)
 二十四日も暮れて、夜になると、皆の不安は増していった。空腹にもさいなまれ始めた。
 飲料水もなかった。喉の渇きを癒すために、外に出て雪を食べた。
 列車には暖房が入ってはいたが、それでも寒さが身に染みるようになった。
 目を閉じてはいても、熟睡している人は誰もいなかった。会社のことや、家に残してきた幼子や病身の家族のことなどを思うと、誰もが、いたたまれぬ気持ちになるのである。
 だが、幹部の多くは、自分たちのことよりも、家族が未入会のなかで、登山会に参加した同志のことを心配していた。
 このうえ、更に何日も家に帰ることができないとなれば、家族はどう思うだろうかと考えると、胸が痛むのである。
 静寂な車内に、時折、火のついたように泣く、赤ん坊の声が響いた。それが、一層、皆のせつなさをつのらせた。持参してきたオムツも既に使い果たし、子をあやす母親の声もくぐもっていた。
 そのころ、長岡支部のメンバーは炊き出しに大わらわであった。
 夕方、長岡支部長の竹川正志から、新潟支部と羽越支部の登山者九百人が乗った登山列車が、宮内駅に立ち往生しているので、オニギリをつくってほしいとの連絡が流れるや、五十人ほどの人たちが、すぐに準備に取りかかった。
 この時、長岡支部からも、五百数十人の支部員が登山会に参加していたが、長岡支部の登山日は、新潟、羽越両支部の一日後であったために、上野駅に着いた時には、長岡に帰る団体列車は、既に運休になっていた。
 そこで、登山者は、東京の学会の会館などに宿泊することになった。
 つまり、長岡支部の中核となるメンバーの大半が、不在だったのである。
 そのうえ、長岡に残った人たちは、自分の家の屋根の雪下ろしや雪掻きをしなければならなかった。
 しかし、同志が雪で止まった列車にいることを思うと、自分の家の雪下ろしどころではなかった。どの家でも、自分たちの食事も早々に、炊けるだけの飯を炊き、大急ぎでオニギリをつくり始めた。
 どこも、残っている家族が総出で準備をした。炊き上がったばかりの飯はまだ熱く、手はすぐに真っ赤になったが、水で冷やしながら、飯を握り続けた。
 長岡のメンバーは、オニギリが出来上がると、菓子箱やボウルなどに入れ、風呂敷で包み、急いで、吹雪の夜道を徒歩で宮内駅に向かった。

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