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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「早春」 早春

小説「新・人間革命」

前後
1  早春(1)
 ヨーロッパはこの冬、大寒波に襲われた。
 しかし、その氷雪をとかさんばかりに、広宣流布の歓喜の炎は燃え上がっていた。
 ロサンゼルスで、会長山本伸一が出席して、アメリカの西部総会が開催された一九六三年の一月十二日、ドイツでも、支部結成の産声があがった。
 その準備にあたったのが、ヨーロッパに派遣された、秋月英介、谷田昇一、大矢良彦の三人であった。
 彼らは一月九日の午後十時過ぎに羽田の東京国際空港を発ち、アメリカ・アラスカ州のアンカレジを経由して、デンマークのコペンハーゲンに到着。ここで、ヨーロッパの連絡責任者の川崎鋭治と合流し、現地時間の十日午前九時に、スウェーデンのストックホルムに着いた。
 そこは、白銀の世界であった。
 この街では、大原清子という、メードをしている女性が信心に励んでいた。
 一行はホテルで、大原に口頭試問による教学の試験を行い、夜は座談会を開いた。一行三人と川崎、大原、そして、彼女が連れて来た新来者で、イギリス人のエンジニアの青年の、計六人のささやかな座談会であった。
 しかし、この座談会で、その青年が入会を決意したのである。
 座談会の後、一行は、スウェーデンの組織について検討し、翌十一日の朝、大原に、スカンジナビア地区の結成を伝えるとともに、彼女を地区連絡責任者に任命したのである。
 それから彼らは、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフへ移り、ルール地方の炭鉱で働くメンバーの激励に向かった。
 ここには、炭鉱労働者として、多くの日本人が渡っていたが、カストロプラウクセルとゲルゼンキルヘンの炭鉱に、八、九人の日本人の学会員が働いていたのである。
 カストロプラウクセルの炭鉱で働くメンバーの中心になっていたのは、佐田幸一郎という青年であった。
 ――佐田は北海道の利尻島に生まれ、七歳で父親を亡くしていた。
 母親は女手一つで、彼を頭に四人の子供を育てなければならなかった。家計を助けるために、彼も、子供のころから働いた。小学校も満足に通うことができなかった。
 十八歳になった時、彼は釧路の炭鉱に就職する。しかし、それから間もなく、母親が四十一歳の若さで他界してしまった。
 更に、彼自身も、作業中に左足をトロッコに轢かれるという大怪我をする。
 佐田は、次々と襲いかかる不幸に、自分の運命を呪った。
2  早春(2)
 佐田幸一郎は、医師からは、左足を切断しなければならないかもしれないと告げられた。光の差さない、炭鉱の坑道さながらに、人生の前途に何一つ希望は見いだせなかった。
 そんな時、同僚から仏法の話を聞かされた。宿命を転換していくのが、この仏法であるとの確信あふれる言葉に、彼は入会を決意した。一九五七年(昭和三十二年)四月のことである。
 幸いなことに左足の切断は免れ、怪我は完治した。
 彼は、男子部員として、歓喜に燃えて活動に励むようになった。
 学会活動を始めて困ったことは、学校に行けなかったために、漢字がほとんど読めないことであった。
 戸田城聖が男子部に与えた「青年訓」や「国士訓」を見ても、漢字がわからないのである。
 佐田は、読み方を、年下の男子部員に聞いて、振り仮名をつけることから始めなければならなかった。
 やがて、六〇年(同三十五年)に、山本伸一が第三代会長に就任した。伸一は、その年の秋には、北・南米の指導に旅立ったのをはじめ、アジア、ヨーロッパと、世界への平和旅を展開していった。
 ″青年よ、世界へ″と呼びかける伸一の指導に、佐田も、世界広布に青春を捧げたいとの希望をいだき、ヨーロッパに渡ることを夢見るようになっていった。
 しかし、アルファベットもわからない自分には、それは叶わぬ夢であると考えていた。
 そのころ、西ドイツ(当時)のルール地方の炭鉱が、炭鉱技術派遣として、労働者を募集していることを知った。
 駄目でもともとと思いながら、彼は意を決して応募した。すると、派遣メンバーに選ばれていた。
 佐田は思った。
 ″不思議だ! これは、自分には、ヨーロッパ広布の使命があるということなのだろう″
 六一年(同三十六年)十月、出発を前に海外局を訪ねたところ、職員が、聖教新聞社にいた山本会長のところへ案内してくれた。
 伸一は、ヨーロッパ訪問から帰った直後であった。
 彼は、笑みを浮かべて、佐田を迎えた。
 「ドイツに行って、広宣流布をやろうというのは君だね。ご苦労様!
 ヨーロッパの広布の道は切り開いてきたから、安心して行ってらっしゃい。向こうでも、地涌の菩薩が待っているよ。
 これから、君の後にも、たくさんの同志が続くだろうから、決して、焦る必要はない。一歩一歩、階段を上るように、着実にやっていきなさい」
3  早春(3)
 山本伸一は、西ドイツ(当時)に渡って、広宣流布をやろうという、佐田幸一郎の青年らしい心意気が嬉しかった。
 伸一は、この時、佐田に約束した。
 「もし、ドイツのメンバーが十世帯になったら、その時には地区をつくろう。また、三十世帯になったら、支部を結成することにしよう」
 佐田は、それは山本会長から、自分に与えられた目標であると受け止めた。
 彼が日本を発ったのは、十一月一日であった。二十八歳になっていた。
 デュッセルドルフに着いた佐田は、山本会長がヨーロッパ初訪問の折に宿泊したホテルを見に行った。
 ″先生は、ここでドイツの広布を考えられた。ここには先生の題目が染み込んでいる。俺も頑張るぞ!″
 彼は、ホテルの前に立って誓った。
 佐田は、ヨーロッパの連絡責任者の川崎鋭治に連絡を取り、当時、西ドイツにいた三世帯のメンバーの激励から始めた。
 更に、炭鉱で働く日本人の同僚たちに、仏法の話をしていった。
 一方、ゲルゼンキルヘンの炭鉱のメンバーの中心となっていたのが、諸岡道也という二十三歳の青年であった。
 彼も北海道の出身で、一九五六年(昭和三十一年)に、十七歳で信心を始めた。十八歳から炭鉱で働き、男子部員として活動に励んできた。
 諸岡は、「東洋広布」を訴える第二代会長の戸田城聖の指導や、第三代会長に就任した山本伸一の「世界広布」という言葉を、機関紙で目にするにつれ、自分も、その一翼を担いたいとの、強い思いをいだくようになった。
 しかし、彼もまた、それは、実現性の乏しい夢物語であると感じていた。ところが、日本の炭鉱離職者を西ドイツの炭鉱が受け入れるという話を耳にし、勇んで名乗りをあげた。
 だが、諸岡を悩ませたのは、家庭の問題であった。自分が中心になって、家計を支えなければならなかったからである。
 ある日、思い切って、両親に、自分の希望を話してみた。彼より先に入会し、地道に信心を貫いてきた父親は、わが子の熱い思いを知ると、即座に言った。
 「そうか。ぜひ行ってこい。家のことは心配するな。思う存分、広宣流布のために頑張れ!」
 彼の西ドイツ行きは決まった。出発は六二年(同三十七年)の三月である。
 この年の一月、札幌を訪問した会長の伸一に、彼は西ドイツに渡ることを報告した。更に、出発前にも、学会本部に行き、伸一の激励を受けた。

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