Nichiren・Ikeda
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1 萌芽(1)
今日もまた
仏の使と
奮い立て
恩師の誓い
果たし死すまで
これは、父と慕う戸田城聖が逝去した年に、山本伸一が弟子としての決意を詠んだ和歌である。
一九六三年(昭和三十八年)「教学の年」の元朝、伸一は、この和歌を思い起こし、元日から、全力疾走を開始したのであった。
伸一は、恩師の心を思うと、いつも力がわいてきた。師弟の誓いこそ、彼の勇気の源泉であった。
彼のこの年の間断なき激闘は、元旦の学会本部での新年勤行会でスタートを切った。
明けて二日は、伸一の満三十五歳の誕生日であった。この日の朝、彼は総本山に向かい、大講堂で行われた幹部会に出席。ここでは最高幹部の人事が発表され、副理事長に清原かつ、岡田一哲ら三人が、また、新理事に八人が就任した。
この幹部会で、伸一は、「教学の年」の冒頭を飾って、「法華初心成仏抄」を講義した。
三日の夜、総本山から帰ると、四日には理事らと、今後の活動の打ち合わせを行い、五日は、一月八日から始まる海外訪問の準備にあたった。
そして、迎えた六日は、教学部任用試験が行われ、全国で約五十万人が受験した。学会は、この任用試験で、新年の本格的な活動の幕を開けたのである。
任用試験だけで、老若男女五十万人が挑戦したことは、驚くべき出来事といってよい。学生ならばともかく、壮年や婦人、高齢者までもが、真剣に仏法の生命哲学を学び、人間の真実の生き方を、自他ともの幸福への道を探究しようというのである。
しかも世間は、まだ松の内の、正月気分に酔っているさなかに、受験者も、教える側の人も、懸命に御書に取り組み、この六日の試験に臨んだのである。
これほど民衆を覚醒させ、育成してきた団体は、創価学会をおいてほかにない。この学会の広宣流布の大運動のなかにこそ、″民主の時代″を大きく開く、最も根本的な潮流があるといえるであろう。
伸一も、この日は、朝から都内の幾つかの会場を回って受験者を励まし、夜には、新宿区の早稲田大学の記念会堂で行われた女子部幹部会に出席。更に、七日の夜には、同じく早大記念会堂での男子部幹部会に出席した。
そして、八日の午前十時半には、彼は、羽田の東京国際空港から、世界のメンバーの激励・指導へと、飛び立ったのである。
2 萌芽(2)
今回の山本伸一の海外訪問では、各地で支部結成や教学試験などが予定されていた。
伸一は、この訪問で、十年先、三十年先、百年先のために、世界の広宣流布の楔を打つ決意であった。
一日一日が勝負である。一瞬一瞬が決戦である。″この時″を逃さず、力の限り道を切り開いてこそ、未来の燦たる栄光が待っている。
彼の主な訪問地は、アメリカではホノルル、ロサンゼルス、ニューヨーク、ヨーロッパではフランスのパリ、スイスのジュネーブ、イタリアのローマ、中東ではレバノンのベイルート、南アジアではインドのニューデリー、東南アジアでは香港となっていた。
伸一に同行し、同じコースを回るのは副理事長の十条潔だけであったが、そのほかに、「アメリカ北回り」「アメリカ南回り」「ヨーロッパ」の三コースが計画されていた。
「アメリカ北回り」は、婦人部長で副理事長の清原かつ、学生部長で理事の渡吾郎、女子部長の谷時枝の三人である。
このメンバーは、ニューヨークまでは、世界を一周する伸一たちと行動をともにするが、その後、ワシントンDC、ルイスビル、カンザスシティー、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなどを回って、一月二十四日に帰国することになっていた。
また、「アメリカ南回り」は、副理事長の春木征一郎で、ワシントンDCまでは、「アメリカ北回り」と一緒だが、そこから分かれて、マイアミ、エルパソ、コロラドスプリングスなどを回り、シアトルで再び、北回りのメンバーと合流することになる。
更に、「ヨーロッパ」コースは、青年部長で副理事長の秋月英介、理事の谷田昇一、大阪大学の歯学部で助手をしている、理事の大矢良彦である。
このメンバーは、一月九日の夜に日本を発って、スウェーデンのストックホルム、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ、イギリスのロンドンなどを回り、フランスのパリで、伸一たちと合流する計画であった。
重層的な、世界への指導の展開である。
一月八日に、伸一とともに羽田を発ったのは、十条と「アメリカ北回り」の清原、渡、谷、「アメリカ南回り」の春木であった。
機中、伸一は、はるかなる未来を見すえながら、世界広布の設計図を胸に描いていた。
一行の乗ったジェット機は、定刻通りに、現地時間の七日午後九時(日本時間八日午後四時)過ぎ、ハワイのホノルルに到着した。
3 萌芽(3)
山本伸一がハワイの地に降り立ったのは、一九六〇年(昭和三十五年)十月の初訪問以来、二年三カ月ぶりであった。
一行が通関手続きを終えて、空港ロビーに出ると、大勢のメンバーが待ち構えていた。拍手が起こり、メンバーの手で、皆の首にレイが掛けられた。
「出迎え、ありがとう」
伸一は、メンバーの歓迎に手を振って応えた。
続いて、学会歌の「威風堂々の歌」の合唱が始まった。
前回の訪問の折に、伸一の一行を出迎えたのは、連絡の手違いもあり、トニー・ハラダという青年一人であった。また、座談会に集まったのも、三、四十人であったし、誰もが希望もない、暗い表情をしていた。
それが今回は、空港に出迎えに来てくれたメンバーだけでも、五十人はいるのである。しかも、どの顔も喜びに輝き、歌声は弾んでいた。
夜の空港での合唱とあって、伸一は周囲の人びとのことを気遣った。幸いなことに、メンバーのほかには、人の姿はほとんどなかった。
メンバーは、山本会長を再びハワイに迎えた喜びと決意を、どうしても学会歌に託して表現したかったのであろう。
伸一は微笑を浮かべ、真心の合唱を聴いた。
出迎えた友のなかには、アメリカ副総支部長の正木永安をはじめ、あのトニー・ハラダの姿もあった。
伸一が初訪問の折に、ハワイ地区部長に任命したヒロト・ヒラタもいた。伸一にレイを掛けてくれたのは、ヒラタの妻のタツコである。
また、ハワイの座談会で伸一に質問をしたミツル・カワカミの顔もあった。
更に、昨年の七月にニューヨークに渡った春山栄美子もいた。彼女は、ヨーロッパの連絡責任者で医学博士の川崎鋭治の妹である。
春山は一九五五年(昭和三十年)の入会で、日本にいた時には、女子部の企画部員、中部第三部の部長などを務めてきた。
六一年(同三十六年)に結婚し、夫の春山富夫が商社マンとしてニューヨークに赴任したために、栄美子も渡米したのである。
彼女の出発にあたって、伸一は「夫婦して 功徳の華を 咲しゆけ 妙法の宝
深く刻みて」との和歌を認めて贈り、その前途を祝福した。
また、この時、伸一は春山栄美子を、アメリカ総支部の副婦人部長と、女子部のアメリカ部の部長に任命したのである。
女子部の中核として活躍してきた彼女への、伸一の期待は大きかった。