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第7巻 「文化の華」 文化の華

小説「新・人間革命」

前後
1  文化の華(1)
 偉大なる宗教は、偉大なる文化を生む。これは歴史の法則である。
 太陽の光が雪をとかし、大地の眠りを覚ませば、そこには芽が吹き、やがて、花々が咲き乱れる。
 同じように、仏法の慈光が、凍てついた人間の生命の大地をよみがえらせる時、絢爛たる「人間文化の華」が開くに違いない。
 広宣流布とは、社会建設の担い手である一人一人の人間革命を機軸に、世界を平和と文化の花園に変えゆく、まことに尊き偉業なのである。
 一九六二年(昭和三十七年)という年は、弘教の広がりのなかで耕された民衆の大地に、山本伸一の手によって、次々と文化の種子が下ろされ、発芽していった年であった。
 政治の分野では、一月に公明政治連盟が正式にスタートし、七月には、公明会が発足している。
 また、学術研究の分野では、一月に外郭団体として東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)が創設され、十一月には、その機関誌として『東洋学術研究』が創刊されることになる。
 更に、八月の一日には、東京の杉並公会堂に、約千人の教育者が集まり、歴史的な教育部の第一回全国大会が開催された。
 伸一は、この日を、心躍る思いで迎えた。彼は、壇上から場内を埋め尽くした″先生たち″の顔に視線を注いだ。どの顔も、使命感に燃えて紅潮していた。
 教育部が結成されたのは前年の五月三日、伸一の会長就任一周年の本部総会の席上であった。
 教育部長には清原かつが就任し、翌月の十日には学会本部に約三百人の教師が集い、結成式が行われた。
 伸一は、この年の『大白蓮華』七月号の巻頭言「文化局の使命」のなかで、教育部に対する多大な期待を述べている。
 そのなかで彼は、「個人の幸福とあいまって、社会の繁栄を願い、平和な楽土を建設しようとすることこそ、立正安国の精神なのである」としたうえで、次のように訴えていった。
 「民族の盛衰、一国の興亡、一にかかって教育のいかんにありということは、古今東西の歴史が如実にこれを示している。
 とくに、教育の効果は、二十年、三十年後に現れるともいえよう。教育こそ、次代の民族の消長を決定する、まことに重大な問題である。
 しかるに、日本の現状はいかん。敗戦後十有余年の歳月を経た今日、いまだに確固たる理念もなく、迷いつづけているのは、じつに教育界ではないか。まことに嘆かわしいかぎりである」
2  文化の華(2)
 更に、山本伸一は、この時に、時代の行く手を見定めて立ち上がったのが教育部であるとして、こう記している。
 「暗黒の教育界に、希望の灯台が、いま一閃の輝きを放ったものと叫びたい。
 創価学会には、教育界の大先覚者であられた、牧口常三郎初代会長によってつくられた、教育学体系の大理念がある。また、妙法によって人間革命された、多数の教育者がいる。
 およそ、教育は理念のいかんと、教育者自体の人格によって決まるものである。透徹した教育学体系と、みがかれた人格とをもった、わが教育部員こそ、まことの教育者であると、私は信じたい。
 『無量義とは一法より生ず』との原理にもとづき、妙法を護持したわが教育部員が、偉大なる仏法を実践する決意のもとに、かつてない偉大なる教育者であるとの誇りをもって、今後、堂々と進みゆかれんことを望むものである。
 また教育部員は、立派な教壇上の教育者なることはもちろん、同時に、不幸な民衆のなかに入り、民衆を救う大教育者たらんことを、忘れてはならない」
 教育部の結成は、恩師戸田城聖の遺言でもあった。
 戸田は、戦後、創価教育学会の再建に際し、その根本の目的は宗教革命にあるとして、会の名称から「教育」の二字を外した。
 しかし、彼は決して「教育」を忘れたわけではなかった。真の宗教革命は即人間革命であり、信仰によって蘇生した人間は、社会建設の肥沃な大地となり、必ずや教育、経済、政治など、あらゆる分野に、人間主義の豊かな実りをもたらしていくからである。
 戸田は、七十五万世帯の布教という創価学会の基礎工事に全力を傾注するなかにも、その心情を、細かに伸一に語っていた。
 「牧口先生の残された偉大な教育学説を、弟子として、世界に認めさせたい。
 いずれ、学会は教育部をつくり、人間教育をもって、社会に貢献していかなければならない」
 戸田が、牧口の十回忌にあたる、一九五三年(昭和二十八年)の十一月十八日に、牧口の『価値論』を発刊し、それを英訳し、世界各国の大学や研究所に寄贈したのも、恩師の学説を広く世界に知らしめようとする、決意の表れであった。
 伸一は、戸田の″教育部をつくる″との言葉を生命に刻み、時を待ち、遂に結成に踏み切ったのである。
 そして、教育部の結成の後も、彼は、機会を見つけては、メンバーの激励にあたってきた。
3  文化の華(3)
 一九六一年(昭和三十六年)の九月には、教育部のバッジができた。
 山本伸一は、幾度か、自ら代表にバッジを手渡す機会をもち、メンバーの活躍に期待を寄せて語った。
 「皆さんが教育者の核となり、人間教育の輪を社会に広げていってください。
 皆さんと同じように、子供の幸福を願い、人間教育を実践する教師が、それぞれの周りに十人できれば、教育界に大きな波動が広がり、日本の国は変わっていきます。
 この教育部のバッジは、民衆のため、社会のため、仏法のため、尽くしきっていく者の名誉と責任を表しているのです」
 そこには祈るような、深い響きがあった。
 また、教育部長の清原かつから、教育部員の数が順調に増えているとの報告を受けると、伸一は言った。
 「教育部は一騎当千の勇者です。一人一人が、限りなく大きな使命をもっている。戸田先生は、よくユダヤの人びとに学べと言われていたが、彼らは教師を非常に大事にしている。たとえば、こんな話を聞いたことがある。
 ――昔、ある町を訪れたユダヤ教の指導者が、『ここの防備を見たい』と町長に言った。すると、兵士が立てこもっている砦に連れていかれた。
 視察を終えると、その人はこう語った。
 『私は、まだこの町の防備を見ていません。町を守るのは兵士ではなく、教師です。なぜ、私を学校に真っ先に連れていってくれなかったのですか』
 教師こそ国を守っている勇者だというのだ。私も本当にその通りだと思う。教師は、国家どころか、人類の未来を守っているといってもよいくらいだ。
 だから、どうか、教育部のメンバーを大事に育ててください。それが、社会のため、日本のため、世界のためになっていく。
 私の最後の事業も教育であると考えているんです」
 伸一は、日本の未来を、どうするかを真剣に考え抜き、教育を最重要視し、教育部の育成に最大の力を注いでいたのである。
 このころ、日本では、青少年の非行が、社会的に大きな問題となっていた。
 戦後の青少年の非行は、一九五一年(昭和二十六年)をピークに、いったんは減少傾向にあったが、五五年(同三十年)からは再び上昇していた。
 そして、六一年(同三十六年)には、警察に検挙された少年は、一年間に、実に約九十五万人に上り、深刻な事態を迎えていたのである。

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