Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「加速」 加速

小説「新・人間革命」

前後
1  加速(1)
 一九六二年(昭和三十七年)「勝利の年」が開幕して以来、布教の波は一段と加速していった。
 そして、そのスクラムと自信に満ちた足跡は、全国津々浦々に広がり、人間がいるところ、そこには、必ず、広宣流布の旗が翻るようになっていった。
 会員の行動は、まことに地味であった。日々、黙々と動き、いかなる不幸の人のもとへも、荒れ果てた大地にも、妙法の使者となって懸命に足を運んだ。
 それは、見栄を張った人間や、人目を気にする上品ぶった人や、名誉と地位を欲して虚栄の一日一日を過ごしている人には、とうてい想像のつかない、尊い作業であった。
 ――ここに、真実の仏法があり、真実の人間主義がある。
 福岡市の博多港に突き出た埋め立て地の一角に、トタンを打っただけの粗末な掘っ立て小屋のような家が密集する″ドカン″と呼ばれる地域があった。
 今日ではビルが林立し、当時の面影はないが、以前は、周辺の人びとが足を踏み入れることも憚る地域であった。
 この辺りは、戦後しばらくは住む人もなく、埋め立て地を縦断する道路の脇に倉庫が点在していたほか、製氷工場が、ぽつんと建っていたにすぎなかった。
 だが、ここに、いつのころからか大きなドカン(土管)が放置され、そこに人が住み着くようになった。戦災で家をなくした人もいれば、職を失い、流れ流れて、ここに来た人もいた。
 ドカンの中は、人が腰をかがめて、入れるぐらいの大きさであった。その両側にムシロをかけ、″我が家″としたのである。
 やがて、ここに住み着く人が増え、ドカンに替わって、木材やトタンを集めて来ては、掘っ立て小屋を建てるようになった。
 そして、戦後、数年を経たころには、一帯はそんな″家″で埋め尽くされていった。当然のことながら、皆、″無断建築″である。
 ″ドカン″地域の内部は複雑極まりなかった。好き勝手に建てた″家″がひしめき合い、道は狭く、太陽の光も差さなかった。そこは、政治の光さえ差すことのない、日本の社会の日陰でもあった。
 治安も悪く、窃盗、喧嘩は日常茶飯事で、流血事件も絶えなかった。真っ昼間から、あちこちで賭博も行われ、酒を密造している人もいた。
 アルコール中毒、ヒロポン中毒に侵され、その禁断症状に苦しむ人の姿も、よく見受けられた。
 手配中の容疑者も、ここに逃げ込めば、捕まらないとまで言われていた。
2  加速(2)
 周辺の地域の人たちは、子供によく言い聞かせなければならなかった。
 「あんた、よかね。絶対に″ドカン″には入ったらいかんとよ」
 しかし、この無法地帯さながらの″ドカン″地域にも布教の波は及び、″異変″が起こり始めていたのである。
 ここに、メンバーが誕生し始めたのは、一九五四年(昭和二十九年)ごろのことであった。
 その一年ほど前から、松本タツという、″ドカン″地域の近くに住む、一女性が、″この人たちに幸せになってもらいたい″との思いで、顔見知りになった人の家に折伏に通い始めた。
 しかし、最初は、誰も彼女の語る仏法の話に、耳を傾けようとはしなかった。
 住人の多くは、人生の辛酸をなめ尽くし、希望もなくし、自暴自棄になっていた。皆、人に裏切られてきた過去の苦い経験から、人間不信にも陥っていたのである。
 それだけに、信心をすれば必ず幸福になれるという彼女の話は、裏のある見え透いた″うまい話″にしか思えなかったのであろう。
 しかし、彼女は諦めなかった。
 誰だって幸福になる権利がある。御本尊様は、それを保証してくださっている――その確信に燃えて、彼女は唱題を重ねては、粘り強く、多くの人と対話を続けた。
 そして、遂に、一人、二人と、彼女の弘教が実り始めるのである。
 入会し、信心に励むようになった人たちは、暗かった表情も明るく変わり、生活のうえで、さまざまな功徳の体験が生まれた。
 身近に信仰の実証を目の当たりにした″ドカン″の人びとは、仏法の話に素直に耳を傾けるようになっていった。
 更に、各地の同志も、ここに住む友人に弘教に訪れ、この地域の広布の水かさは着実に増し始めた。
 一九五六年(同三十一年)には、会員世帯は三十世帯に、翌年には六十世帯に、その次の年には百五十世帯になり、この六二年(同三十七年)ごろには、四百数十世帯にまで達していたのである。
 地域柄、住民登録をしない人も多く、地域全体の世帯数は不明であるが、居住していた会員の話では、″ドカン″地域の半数以上が信心をしたようである。
 朝になると、至る所から勤行・唱題の声が聞こえ、元気に仕事に出かける人の姿が目立つようになった。
 夜には、あちこちで座談会が開かれた。狭い、小屋のような家は人であふれ、体験発表にわき、明るい笑い声が響いた。
3  加速(3)
 ″ドカン″地域の学会員の増加とともに、児童の就学率も次第に上昇していった。また、何よりも、警察が驚嘆するほど、犯罪の数が減り始めたのである。
 闇のなかを生きてきたこれらの人びとの心に、希望の光を注ぎ、生きる勇気をもたらす力となったのが信仰である。
 創価学会の最大の偉業は、苦悩する民衆のなかに分け入り、現実に、そうした一人一人を蘇生させてきたことにある。
 この″ドカン″地域に住み、やがて地区部長として活躍することになる井村久幸も、仏法によって人生を蘇生させた一人であった。
 彼が、ここに住み着いたのは、一九五四年(昭和二十九年)の正月、三十七歳の時であった。
 井村は、以前は、炭鉱会社の経理担当者として、将来を嘱望されていた。しかし、長年、小康を保っていた喘息が悪化し、仕事をすることができなくなった。
 発作が起こり、仕事に出られぬ日が増え、やがて、長期欠勤の末に解雇されてしまったのである。
 彼には、妻と、八歳の長男を頭に、五歳と二歳の、三人の男の子がいた。
 しばらくの間は、会社の温情で社宅に住むことができたが、それにも限界があった。そのうち、家賃の滞納が続き、年の瀬に、一家で遁走したのである。
 行くあてもなく、北風のなか、三男を背負い、次男の手を引き、うつむいて黙々と歩く妻のやつれた首筋を見ると、井村は胸が締めつけられる思いがした。
 しかし、既に彼には、温かな言葉一つかけてやる気力さえなかった。
 親戚の家などを転々とするうちに、いつしか、年は明けていた。
 井村は、博多の町をさまよいながら、常に死に場所を探していた。だが、子供たちの無邪気な笑顔が、彼を救った。
 ″この子供たちのためにも、なんとかせにゃ……″
 そうは思っても、身を寄せる先はなかった。
 世間は年の初めの、めでたい正月である。晴れ着を着た人たちと行き交うたびに、井村は目を伏せた。
 そして、たどり着いたのが、この″ドカン″地域であった。
 彼は、軒を触れ合うように建ち並んだ掘っ立て小屋の前に立ち、冷たい潮風に吹かれ、しばらく途方に暮れていた。
 そのうちに、自分たちも、ここで暮らしてみようかと思った。
 この地域の一隅に、彼も自分で家を建てた。家といっても、集めて来た木材を柱にして、板とムシロで囲い、トタンを被せただけの小屋である。

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