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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「遠路」 遠路

小説「新・人間革命」

前後
1  遠路(1)
 「人間によって人間の世界は結合される」と言った詩人がいた。
 友情は人間を結び、世界を繋ぎ、平和への黄金の橋を架ける。
 山本伸一の旅は、友情の花を咲かせ、心の道を開く人間対話の旅であった。
 一九六二年(昭和三十七年)二月二日の朝、伸一の一行は、イラクの首都バグダッドを発って、空路、トルコのイスタンブールに向かった。
 イスタンブールの空港では、この国の首都のアンカラに住むハルコ・ハリルという日系の婦人と、トルコ人の夫が迎えてくれた。
 彼女は元侯爵家の令嬢であったが、父親は戦死し、人生の辛酸をなめてきた。伸一は日本で、学会員の紹介で、彼女と会っていた。
 夫はトルコの外交官として、日本に五年ほど赴任していたことがあり、日本語も話すことができた。彼はにこやかに語り始めた。
 「ようこそトルコへおいでくださいました。
 私は、トルコと日本は不思議な関係にあるように思います。たとえば、トルコの国旗は、赤地に白い三日月と星。日本の国旗は、白地に日の丸、つまり、太陽ですね。これは″兄弟″の関係ではないでしょうか。
 また、トルコはアジアとヨーロッパの境にあり、日本はアジアとアメリカの境にあります。そして、日本はシルクロードの東の端、トルコは西の端です。
 二つの国は、両端にあって、一見、遠いように見えますが、実は、共通性をもった親しい国なのです」
 伸一が答えた。
 「私も同感です。磁石も″N極″と″S極″という両極同士は、互いに強く引き合います。トルコ人のあなたと日本人の奥様の、仲睦まじい姿が、そのことを象徴的に物語っているのではないでしょうか」
 笑いが広がった。ユーモアは気持ちを和ませる心の清涼剤といえる。
 一行は、この夫妻と昼食をともにした後、彼らの案内で市内を視察した。
 イスタンブールはトルコ最大の都市であり、古代にはビザンチウムといわれ、西暦三三〇年にローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマから、ここに都を移すと、コンスタンチノープル(コンスタンティヌスの都の意)と呼ばれた。
 ローマ帝国が西と東に分かれてからは、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都として栄え、一四五三年にオスマン帝国が征服すると、やがて、イスタンブールといわれるようになる。
 こうした歴史をもち、東西交易の要路ともなってきたこの都市は、東西文化が混ざり合い、独特の雰囲気を醸し出していた。
2  遠路(2)
 イスタンブールは、黒海からマルマラ海に至るボスポラス海峡を挟んで、東岸(アジア側)と西岸(ヨーロッパ側)から成り、アジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがる都市である。
 西側の地域には、ボスポラス海峡から金角湾が細長く食い込み、その南側は旧市街と呼ばれ、オスマン帝国時代からの遺跡が多い。また、北側は新市街と呼ばれ、近代的なオフィス・ビルなどが建ち並んでいる。
 旧市街では、いたるところにモスクと、エンピツのような形をした尖塔がそびえていた。
 一行は、アヤ・ソフィア博物館を視察した。ここは、建設当初はキリスト教の教会であったが、オスマン・トルコの時代にイスラムのモスクとなった。そして、トルコ共和国の誕生後、初代大統領のケマル・アタチュルクは無宗教の博物館とした。
 更に、オスマン帝国の歴代スルタン(皇帝)の居城として知られるトプカプ宮殿を見学し、グランド・バザールで、絨毯などの買い付けにあたった。
 ここは「カパル・チャルシュ(屋根付き市場)」と呼ばれ、一際、賑わいを見せていた。値段の交渉にはハリル夫妻があたってくれたが、店の人は途中、お茶を出したりして、客をもてなしながら、じっくりと交渉に応じていた。
 ある店では、一行が日本人だとわかると、店の主人は、顔をほころばせ、最初に示した値段を急に下げ、ほぼこちらの言い値で商品を売ってくれた。
 買い物の後、ハリル夫妻が海の見える小高い丘に案内してくれた時、山本伸一は、ハリルに尋ねた。
 「先ほどの買い物の時、店の人が日本人だと聞いて安くしてくれましたが、トルコの人たちは日本人に対して、どのような感じをいだいているのですか」
 「極めて親日的で好感をもっています。といっても誰もがあの店の主人のように、安くしてくれるというわけではありませんが。
 トルコは長年、ロシアとの関係で苦労していましたから、日露戦争で日本がロシアを破った時には、生まれた子供に、海軍の東郷元帥の名前などをつける人もいました。
 また、トルコの使節を乗せて、初めて日本を訪問した船が、帰国の途中、嵐のために遭難し、六百人近い人が亡くなるという痛ましい大事故があったことは、ご存じでしょうか」
 「それは一八九〇年(明治二十三年)の九月に、和歌山沖で起こったエルトゥールル号の遭難ですね。
 その時に、日本人が必死で救助にあたったという話は、よく知られています」
3  遠路(3)
 日本とトルコ(オスマン帝国)の間に国交が結ばれたのは、一八八七年(明治二十年)のことであった。
 八九年(同二十二年)七月、トルコ皇帝は、日本に使節団を送った。
 皇帝から明治天皇への親書と勲章を持った使節団の軍艦エルトゥールル号が、東南アジアを歴訪し、長崎、神戸を経て、横浜港に入港したのは、翌年の六月のことであった。
 日本の皇室・政府もこの訪問を大歓迎した。
 しかし、エルトゥールル号は帰国の途についた翌日の九月十六日午後、大惨事に見舞われることになる。
 和歌山沖を航行中、台風に遭遇したのだ。豪雨と濃霧、高波と暴風。舵は折れ、エンジンも破損した。船は荒波に流され、沖合四十メートルほどのところで座礁し、船体は大破、沈没してしまったのである。
 場所は、和歌山県南端の大島(現・串本町)の樫野崎灯台の沖合で、暗礁の多い、航海の難所として知られる海域であった。
 一瞬の出来事で、救命ボートを使うことさえできなかった。また、暴風雨のために、村人も家に引きこもり、海岸には誰もいなかった。急場の救助の手立てはなかった。
 同艦には、オスマン・パシャ提督をはじめ、六百五十余名が乗っていたが、ほとんどの乗員が命を失うことになったのである。
 しかし、そのなかでも、ごく少数の人が、海岸にたどり着き、灯台職員に助けを求めた。村人たちは、そこで初めて、この大事故の発生を知ることになるのである。
 すぐさま、地元の村長、村人が駆けつけ、生存者の救助に当たった。
 旅先で思いもよらぬ惨事に遭った異国の人びとに対する村人の救援は、まことに迅速であり、献身的なものがあったようだ。
 当然、話す言葉はわからない。また、貧しい漁村であり、病院などの医療の設備もなかった。しかし、村人たちは傷付き苦しむ生存者を助け、重傷者は戸板に乗せ、軽傷者は体を支えて、学校や寺院、民家に連れていき、夜を徹して救護に当たった。
 更に、村人たちは、嵐が収まると、遺体を収容し、手厚く葬っていった。
 生存者は六十九名、死者は実に五百八十名を超える大惨事であった。
 エルトゥールル号の遭難の報は、新聞でも大きく取り上げられ、全国から義援金が寄せられた。
 政府も、生存者を見舞うとともに、彼らを二隻の巡洋艦で、トルコまで送り届けたのである。

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