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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「宝土」 宝土

小説「新・人間革命」

前後
1  宝土(1)
 新世紀の大舞台は、世界といってよい。そこには、戦火にあえぐ友がいる。悲嘆に暮れる母がいる。飢えに泣く子らもいる。
 泉が砂漠をオアシスに変えるように、人間の生命からわき出る慈悲と英知の泉をもって、この地球を平和の楽園へ、永遠の宝土へと転じゆくヒューマニズムの勝利を、我らは広宣流布と呼ぶ。
 一九六二年(昭和三十七年)一月二十九日、山本伸一は中東へ出発した。
 午前十一時に羽田の東京国際空港を飛び立ったSK(スカンジナビア航空)九八四便は、最初の経由地であるフィリピンのマニラに向かっていた。
 伸一の今回の正式な訪問国は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタン、そして、タイの七カ国であり、イランの首都テヘランが第一の訪問地であった。
 訪問の目的は、現地の会員の指導、宗教事情の視察等々である。
 同行のメンバーは、今回は青年に絞り、青年部長の秋月英介、青年部の幹部である吉川雄助、黒木昭の三人の理事であった。
 伸一のこの中東訪問を最も喜んでくれたのは、当時、東京外国語大学でアラビア語の教鞭を執り、後に日本で最初の『アラブ語辞典』を執筆・編集し、発刊する、河原崎寅造というアラブの研究者であった。
 伸一は、出発の前々日の一月二十七日に、河原崎と初めて会った。
 その日は、聖教新聞社で東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)の発足式が行われた。
 この研究所は、一年前のアジア訪問の折に、伸一が構想し、提案したもので、東洋の思想・哲学の学術資料を収集し、アジア文化を研究する機関である。これが、学会が設立する各種文化団体の先駆けとなったのである。
 席上、伸一は、この研究所から、世界的な学術研究者を輩出し、新文化を創造する知性の府としていってほしいと要望。そして、メンバー一人一人に研究所のバッジを手渡し、自分もそのバッジを胸につけた。
 それは、彼も所員の自覚で、学術研究者を育成していこうとする、決意の表明でもあった。
 伸一は、その後、学会本部で河原崎と会うことになっていた。
 河原崎の所属する組織の幹部から、アラブの専門家の会員がいるので激励してほしいとの、要請を受けていたのであった。
 彼は、まず自ら、真っ先に学術研究者の育成に取り組んだのである。
2  宝土(2)
 河原崎寅造は、黒ぶちのメガネに口髭をたくわえ、堂々たる体格をした″快男児″といった印象の、四十代後半の壮年であった。
 山本伸一は、河原崎を丁重に迎えた。彼は、中東訪問を前に、アラブの事情に精通した河原崎から、旅のアドバイスなども受けられればと思っていた。
 「お忙しいところ、わざわざおいでいただいて申し訳ありません」
 伸一が言うと、河原崎は抑揚のある、大きな声で答えた。
 「いいえ、いいえ、とんでもございません。
 今回、山本先生がアラブにも足を運ばれると聞きまして、私は大変に嬉しく思っております。アラブは私の第二の故郷なんです」
 河原崎は青年時代に外務省の留学生としてエジプトに渡り、カイロ大学のアラビア語科を卒業した後、エジプト、イラクなどの中東各地の日本公館に勤務し、アラブの文化への造詣を深くしていった。
 戦後、官僚生活を嫌って外務省を辞めると、経済苦との戦いが待っていた。しかも、妻と息子が結核に侵されていたのである。
 河原崎一家の苦境を見かねた親戚から、最初に仏法の話を聞かされたのは、彼の妻であった。
 そして、一九五三年(昭和二十八年)の夏に、妻は信心を始めた。その妻の勧めで、河原崎も翌年の四月に入会した。
 しかし、学会に関心があったわけではない。愛する妻の頼みなら、できることならなんでもしようという思いからであった。
 そのころ、アラブの石油資源が日本でも脚光を浴びてきており、河原崎は、ある石油会社に勤務するようになった。更に、その後、別の石油会社に迎えられ、やがて調査役となり、再びアラブの砂漠を闊歩するようになった。日本による、アラブでの初の油田開発にも携わってきた。
 また、東京外国語大学でも、講師としてアラビア語を教えるようになった。
 河原崎は、頬を紅潮させながら、中東情勢 を語り始めた。
 「ご存じのように、中東は″世界の火薬庫″といわれておりますが、その背景には、豊富な石油資源を持つアラブ諸国を巡る、東西両陣営の争奪と衝突があります。
 アラブ諸国は植民地としてヨーロッパに支配され、独立も遅れました。それだけに、アラブの結束を図ろうとする流れがあり、それが、民族主義の台頭をもたらしているともいえます」
3  宝土(3)
 河原崎寅造の言葉には、語るにつれて力がこもっていった。
 「しかし、イスラム教をもとに、アラブの結束が強まるにつれて、一方では、ユダヤ教の国であるイスラエルとの対立の溝は、ますます深まってきています。
 また、アラブ連合共和国からのシリアの脱退ということもあり、アラブが団結を図っていくには、数多くの問題があります。
 更に、石油を発掘し、国が豊かになったことによって貧富の差が広がっているという面もあります。そうした国では、革命が起こる可能性が非常に高い。
 つまり、アラブには、東西冷戦、民族紛争、宗教紛争、階級闘争など、あらゆる対立の構図があります。
 中東は、地理的にも、アジア、ヨーロッパ、アフリカを結ぶ懸け橋です。
 また、今や国連に加盟したAA(アジア・アフリカ)グループは四十八カ国を数え、そのなかでアラブ諸国は、大きな一角を占めております。つまり、今後のアラブの動向が、世界平和の鍵を握っているともいえます。
 しかし、日本の官僚も、政治家も、経済人も、アラブを単に石油の取引の対象としてしか考えておりません。石油の確保に影響がなければ、アラブで何が起ころうが、対岸の火事のような見方をしている。本当に残念なことです。
 また、日本人は、アラブのことについては、ほとんど何も理解していません。
 アジアの西にある中東と、東にある日本はもっと交流し、ともに互いの国のために、何ができるかを考えていくべきです。
 そこに、国境を超えた人間の連帯が生まれ、それが世界に広がれば、平和の下地が築かれていくというのが私の意見なのです」
 山本伸一が言った。
 「全く同感です。あなたのアラブを愛する心が、よくわかります。私が今回、アラブを訪問するのも、そのためです。
 平和といっても、決して特別なことではない。まず人間の心と心を結び合うことから始まります。それには、文化の交流が大切になります。
 私はアラブと日本の間に、平和と文化の交流の道を開いておきたいのです。
 日本では、欧米の文化ばかりが、もてはやされていますが、欧米だけが外国ではない。アラブにはアラブの文化があり、日本が学ぶべきことも、たくさんあるのではないかと思います」
 「そうなんです。そうなんですよ、山本先生」
 河原崎の目が輝き、口元に微笑が浮かんだ。

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