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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「獅子」 獅子

小説「新・人間革命」

前後
1  獅子(1)
 新しき年が明けた。
 新しき幕が開けた。
 一九六二年(昭和三十七年)「勝利の年」の元日の東京は、穏やかな天候であった。
 東京・信濃町の学会本部では、午前九時から、会長山本伸一を中心に、初勤行が行われた。
 彼は、この一年もまた、嵐のような激闘の年になることを思いながら、新年の大勝利を誓い、深い祈りを捧げた。
 大阪事件の裁判も、一月の二十五日には判決が出されることになっていた。また、二十九日からは、中東のイラン、イラク、トルコなどを初訪問することが決まっていた。
 更に、この年の夏には、参議院議員選挙があり、学会として九人の候補者を推薦することも内定をみていたのである。
 勤行の後、理事長の原山幸一に続いて、伸一があいさつに立った。
 「戸田先生は、亡くなる少し前に、三つの指針を発表されました。
 それは、『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』の三つであり、これこそ、創価学会の永遠の三指針であります」
 集った幹部たちは″おやっ″と思った。一年前の初勤行でも、伸一は、この三指針の話をしたことを思い出したからである。
 伸一の指導は、いつも斬新で、話題も豊富であった。それだけに多くの参加者は、なぜ、山本会長は、二年も続けて同じ話をするのだろうかと思いながら、彼の話に耳を傾けていた。
 皆の心を察知するかのように、伸一は言った。
 「私は、昨年の新年の勤行の折も、この三指針の話をいたしましたが、今年も同じ話をするのは、この三指針に、どこまでも信心の目的があるからです。
 学会は、今や二百三十万世帯を超え、事実上、日本の柱となりましたし、これからも、更に布教の渦を巻き起こしていきます。
 では、その目的は何か。学会という教団が勢力を拡大することでもなければ、議員を増やすことでもありません。
 この戸田先生の示された三指針を、一人一人が現実のものとし、一家の和楽を、人生の幸福を、何ものにも負けない自己自身を築き上げていくことこそ、私どもの目的であります。
 本日、ここに集った幹部の皆さんは、この『なんのため』の信仰かを銘記し、同志を一人も退転させることなく、全員に大功徳を受けさせていただきたいのであります。それが、私の念願なのです」
2  獅子(2)
 集った幹部たちは、破竹の勢いともいうべき学会の前進のなかで、いつの間にか、学会の本来の目的を忘れかけていたのである。
 中心となる幹部が、なんのためかを忘れる時、組織は空転する。仮に、成績本位の活動で、一時的に勝利を収めたとしても、必ず、いつかは、その歪みが出るに違いない。
 ましてや、リーダーが自分の名聞名利のために、活動を推進すれば、組織そのものを大きく狂わせてしまうことになる。
 山本伸一は、戸田城聖の示した、永遠の三指針を年頭に再確認することによって、″なんのため″の信心かという深い楔を打ち込んでおきたかったのである。
 彼は、このころ、幹部の育成に最も心を配り、力を注いでいた。
 前年の十二月二十三、四日の両日には、全国の支部幹部以上が総本山に集い、「勝利の年」への出発を期したが、その折の会合でも伸一は、幹部の在り方について指導している。
 「創価学会の幹部は、決して、名誉主義であってはならない。組織で、五年、十年と幹部をやってきたから、自分は、いつも、そういう立場にいて当然であると考えているとしたら、それは大きな間違いです。
 そんな感覚をもってしまえば、他の団体や会社などと同じことになる。学会は過去にとらわれた功績主義や名誉主義に、絶対になってはならない。
 したがって、たとえば、支部長等の役職を後輩に譲るようになったならば、今度は、場合によっては、一兵卒として組織の最前線に躍り出て戦い、同志のために、広宣流布のために尽くしていこうという精神が必要です。
 なぜ、私がこう言うか。学会の最高幹部も、当然のことながら、やがては若い世代にバトン・タッチしていくことになるでしょう。
 その時に、皆さんが、以前は自分の方が偉かったとか、先輩であったとか言って、学会の新しい流れについていけなくなれば、組織も混乱するし、皆さん自身が自らの福運を消すことになる。そして、敗者になってしまうからです。
 私は、皆さんを信心の敗北者にはしたくないから、あえて、こういう話をしているのです。
 また、ここにいる時は、謙虚そうに見えても、各方面や支部に帰れば、傲慢で無礼な態度で会員に接し、『なぜ、あんな人が幹部なのか』と、同志から言われている人も、なかにはいるかもしれない」
3  獅子(3)
 この総本山での山本伸一の指導は、いつになく、厳しかった。
 彼は、更に力を込めて語っていった。
 「幹部が、まるで殿様のように威張り、傲慢になれば、それは既に堕落です。
 なぜなら、学会の幹部の基本は、会員への奉仕、広宣流布への奉仕であるからです。
 皆を確信をもって指導していくことは大事です。しかし、それは威張ることとは違う。
 一人一人を大切にし、相手の幸福を願い、丁重に、礼儀正しく語るなかにも、おのずから滲み出てくるのが、信仰への確信です。
 幹部になれば、皆も一応は尊敬してくれます。それでいい気になり、私利私欲のために、会員を利用したりするならば、即刻、解任せよというのが、戸田先生の指導でした。
 これからも、そうした、やましい、卑しい根性をもつ人が、幹部であっては絶対にならない。
 また、反対に幹部に取り入って、うまく学会を利用しようとする者もいるでしょう。それに乗ってしまうのも、油断であり、幹部に慢心があるからです。
 私たちは、それらを、互いに、厳しく戒め合っていきたいと思います。
 更に、幹部は、組織のことは、すべて責任をもたなければなりません。
 さきほど、私は、理事室のメンバーに、今日集まった各総支部ごとの人数は何人かを聞きました。ところが、誰もわからない。
 だから、私は厳しく言いました。理事室は、学会のいっさいの責任をもつ立場にあるのに、すべて、他人任せにして、自分は何もつかんでいない。これでは無責任であり、横着です。
 自分が、すべてつかんだうえで、後輩に任せ、鷹揚に構えていることはよい。しかし、その場合も、無責任になるのではなく、最後のいっさいの責任は自分がとるという決意がなくてはなりません。
 それは、各支部長や副支部長の場合も同じです。自分の支部に、いくつの班や組があり、それぞれの実態がどうなっているのかを、直接、自分でつかんでいてこそ幹部です。
 中心者に、幹部に、全会員を幸福にするぞという、強い一念があるならば、無責任になど、なれるわけがありません。
 ともあれ、大聖人も『身はをちねども心をち』と戒められておりますが、栄えある学会の幹部として、堕落するようなことがあっては絶対にならないと、申し上げておきたいのであります」

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