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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「勝利」 勝利

小説「新・人間革命」

前後
1  勝利(1)
 仏法は勝負である。
 なれば、人生も勝負であり、広宣流布の道もまた、勝負である。
 人間の幸福とは、人生の勝者の栄冠といえる。そして、世界の平和は、人類のヒューマニズムの凱歌にほかならない。
 その勝利とは、自己自身に勝つことから始まり、必死の一人から、大勝利の金波の怒涛は起こる。
 十月二十三日にヨーロッパから帰国した山本伸一は、残り二カ月余となった一九六一年(昭和三十六年)「躍進の年」の総仕上げの活動に、全力で取り組んでいった。
 十月二十七日夜、東京・両国の日大講堂で行われた本部幹部会に出席した伸一は、ヨーロッパ指導の模様に触れた後、全同志が待望している総本山の大客殿の建設について語った。
 大客殿の建設にあたっては、前年の春以来、毎月、学会の代表、宗門の僧侶の代表が集い、専門家の意見を聞きながら、設計やスケジュール等、さまざまな角度から検討を重ねてきた。
 その間、設計も改良につぐ改良が行われ、遂に、正式に、来春、着工の運びとなったのである。
 伸一が、それを発表すると、講堂の大鉄傘を揺るがさんばかりの大拍手が鳴り響いた。大客殿の建立は、三百万世帯の達成に向かって突き進む同志の、希望であった。
 翌二十八日と二十九日の両日、伸一は、総本山で営まれた第六十五世日淳上人の三回忌法要に参列した。
 この法要の後、客殿で日達上人から、総本山の大総合計画委員会の設立が発表された。
 これは、広宣流布の未来を展望して、総本山を整備、荘厳していくための委員会であった。委員会は宗門の僧侶など九人で構成されていたが、学会からは、会長の伸一をはじめ四人が委員になった。
 伸一が辞令を受ける際、日達上人は彼に言った。
 「いっさい、お任せいたします」
 伸一はこの言葉を受け、宗門の発展を第一義として、誠心誠意、総本山を荘厳しようと、大客殿の建立に最大の力を注いでいったのである。
 しかし、その大客殿は、一九六四年(昭和三十九年)に完成してから、わずか三十一年後の九五年(平成七年)、第六十七世の法主日顕によって、無残にも取り壊されることになる。
 それは供養に参加した百四十二万世帯の同志の真心を踏みにじる、冷酷非道な行為であり、仏法破壊の天魔の姿を象徴している。
2  勝利(2)
 十月三十日と十一月一日は、山本伸一は大阪事件の公判のため、大阪地裁の法廷にいた。
 いよいよ裁判は、大詰めを迎えようとしていた。
 このころ、裁判では、選挙違反の証拠となる、警察官、検察官の取り調べに対する供述調書の採否が、大きな問題となっていたのである。
 実は、裁判の過程で、取り調べが過酷を極め、その供述調書は被告人の意思ではなく、強要によるものであることが明らかになりつつあったのである。
 事実、何時間にもわたって、手錠をはめられ、取り調べられた学会員もいた。
 また、警察官に″選挙違反は、選挙の最高責任者であった山本伸一の指示であると認めなければ、夜も眠らせないで取り調べる″と脅され、虚偽の供述をさせられた人もいた。
 当然、この調書と、法廷での供述の内容には、大きな食い違いが生じてきた。
 検察側は″調書は被告人たちの意思によるものではないので、証拠能力はない″と判断されることを恐れ出した。そして、法廷における供述よりも、取り調べの調書の方が信頼できるとする意見書を、裁判長に提出した。
 一方、弁護側も、それに反論する意見書を、裁判長に提出した。
 この調書の採否のいかんで、伸一の裁判の行方が、大きく影響されることはいうまでもない。
 伸一が選挙違反を行ったとする最大の証拠も、検察官の取り調べに対する供述調書であったからだ。
 検察の伸一への取り調べは、常軌を逸していた。連日のように深夜に及び、時には夕食さえ与えられぬこともあった。
 だが、あくまでも、身の潔白を主張する伸一に、遂に検事は、彼が罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田城聖を逮捕すると言い出したのである。
 伸一が、何よりも心を痛めたのは、恩師の健康であった。
 彼が逮捕された一九五七年(昭和三十二年)七月といえば、戸田の逝去のわずか九カ月前である。既に、戸田の体は、激しく衰弱していた。
 もし、その戸田が逮捕されることになれば、命にも及びかねないことは明らかであった。
 ″なんの罪もない、体の弱った先生を、獄につなぐことだけは、なんとしても避けなければならない″
 伸一は、獄舎にあって、一人、呻吟し悩み抜いた。そして、やむなく、検事の言うように、罪を認める供述をしたのである。
3  勝利(3)
 山本伸一は、法廷の場で真実を明らかにしようと思った。それしか、彼の無実を証明する道はなかった。
 伸一は、弁護士の多くが有罪を覚悟せよというなかで、ただ一人、断じて、負けまいと決意していた。そして、自ら裁判の場で、検事たちの虚偽の発言を鋭く暴いていったのである。
 たとえば、法廷では、取り調べをめぐって、証人として証言した主任検事と伸一との間で、こんなやりとりもあった。
 主任検事は、伸一が釈放になった日のことを、次のように語ったのである。
 「その日は、朝から八千人の人が中央公会堂に集まりまして、その一部の人が、検察庁のなかに一気に入って来たんです。廊下が真っ黒になるほどでした。
 それで、私は山本君に『これでは調べにならんじゃないか』と言いましたら、山本君が『それでは、私が注意して解散させましょう』と言ってくれました。
 そして、目の前にずらっといた一人に、山本君が『ひかえさせろ』と言うと、わずか五分ほどのうちに人が去り、構内は真っ白になってしまったんです」
 主任検事の発言は、伸一が学会のなかで絶対的な権力を誇り、彼の一言で、すべてが行われるとともに、学会は反民主的な団体であるかのように印象づけようとするものであった。
 伸一から、主任検事への質問が行われた。
 「お話のなかで、検察庁のなかが真っ黒になるほどの人が来て、私が合図をしたら、いっせいに退散したという、なにか検察庁に対して圧力をかけたかのような発言がございました。
 それは検察庁のどの場所でしょうか。また、何人ぐらいの人が来ていたのでしょうか」
 主任検事は、一瞬、口ごもったが、虚勢を張って言った。
 「正確な人数まではわかりません」
 「では、私は、どこで合図をしたのでしょうか」
 「…………」
 「そのようなことは、ほかの検事の方は一度も証言されておりません。錯覚か、それとも嘘か、どちらかではございませんでしょうか」
 「それは事実です」
 主任検事は、憮然としてこう答えるのが、精いっぱいであった。
 誰の目にも、主任検事の嘘は明らかになった。
 伸一を陥れようとしたにもかかわらず、むしろ、裁判長の、検察官の取り調べに対する不信をつのらせる結果を招いたに違いない。

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