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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「歓喜」 歓喜

小説「新・人間革命」

前後
1  歓喜(1)
 情熱の国スペインのマドリードの地に、山本伸一が立ったのは、一九六一年(昭和三十六年)十月十五日の夜のことであった。
 街は、思いのほか、閑散としていた。
 伸一は、このスペインには、メンバーは、まだいないと聞いていた。
 彼は、夕食をすませると、ホテルの自分の部屋で長い時間、唱題をした。
 この国に、多くの地涌の友が出現することを、真剣に祈った。
 スペインでは、一泊するだけで、翌日の午前中にはスイスに移動しなければならないが、彼は、この情熱の国に、大きな魅力を感じていた。
 もし、できることなら、首都のマドリードだけでなく、港湾都市として知られる商工業の中心バルセロナにも、ナポレオンの侵攻に民衆が蜂起し、果敢な戦いを展開して激戦地となったサラゴサにも、古来、幸福の島々と呼ばれてきた大西洋に浮かぶカナリア諸島にも行ってみたかった。
 彼は、スペイン人の明るく、純朴な、そして、正義のためには、満身の情熱を注いで戦う人間性に、強く共感していた。
 伸一は、スペインの生んだ、今世紀最大の画家と言われるピカソの大作「ゲルニカ」を思い出した。
 パブロ・ピカソは、一八八一年の十月二十五日に、スペインのマラガで生まれている。
 したがって、伸一がスペインを訪問したのは、生誕八十年の佳節にあたる月ということになる。
 ピカソが「ゲルニカ」を描いたのは、人民戦線(共和国)政府と、ドイツ、イタリアの支援を受けた反乱軍のフランコ将軍派が戦った、スペイン市民戦争のさなかのことであった。
 一九三七年の四月、フランコに味方するナチス・ドイツの爆撃機が、スペイン北部のバスク地方の街ゲルニカを爆破した。なんと、自らの兵器の殺傷能力の実験をかねた、無差別爆撃であった。これによって、罪もない多数の民衆が、その犠牲となったのである。
 パリで、その報道に接したピカソは激怒した。彼は直ちに「ゲルニカ」の制作を始めた。ちょうど、この年にパリで開かれる万国博覧会のスペイン政府館の壁画を依頼されていたのである。
 ピカソは、極端に変形した技法を使い、黒と白とグレーで、爆撃にさらされた人間や家畜の断末魔の情景を描いた。
 その技法は、見事に功を奏し、爆撃への恐怖と苦痛と絶叫が、見る者の心に、強く、激しく迫ってくるかのようであった。それは、彼の不正への怒りと、まばゆいヒューマニズムの結晶といってよいだろう。
2  歓喜(2)
 スペイン市民戦争は、フランコ軍が勝ち、フランコの長い独裁が始まる。
 ピカソは、フランコの独裁を憎み、第二次世界大戦でパリがドイツの占領下に置かれた時にも、パリに住み続けた。ドイツ軍は、彼が作品を発表することを禁止したが、彼はパリから立ち去ろうとはしなかった。
 熱いヒューマニズムの血が、彼の体に脈打っていたのであろう。
 また、ピカソと同じく、フランコ独裁、ナチス・ドイツと戦った人に、スペインの生んだ大音楽家パブロ・カザルスがいる。
 彼は、一八七六年の十二月、バルセロナに近いヴェンドレルの町に生まれた。
 幼いころから、チェロ奏者としての才能を発揮したカザルスは、若くして世界的名声を博した。
 カザルスは、パリを中心に広く欧米で演奏活動を行う一方、バルセロナにオーケストラを設立し、自ら指揮者となるなど、ここでも音楽活動を続けた。
 しかし、フランコの反乱が彼を嵐に巻き込む。
 熱烈な愛国者にして共和主義者であった彼は、″フランコ独裁″のスペインを認めず、フランスに亡命する。
 だが、彼の愛郷の情はやみがたく、生まれ故郷に程近い南フランスのピレネー山脈の麓の町、プラードに移り住むのである。
 間もなく、第二次世界大戦が始まった。彼は、そこから、フランコ政権や、それを支持するドイツやイタリアに、断固として反対の意思を表明し続けた。ナチス・ドイツによる脅しも、懐柔の誘いもあった。
 しかし、彼は信念を曲げなかった。そして、スペインからの亡命者の救済にも力を尽くしていった。
 カザルスは言う。
 「私は政治家ではない。(中略)まったく単なる一芸術家にすぎない。そこで問題は、芸術が一つの気晴らしで、人間生活の欄外の玩具であるべきか、それともその本来の人間的意義を保持すべきかということだ。
 政治的な諸機能は、芸術家のあずかり知らぬことだが、私の考えでは、人間の権威ということが問題になるときには、芸術家も、どんな犠牲を払っても立場をはっきりさせなければならないのだ」
 それは、彼の、人間としての誇りと使命の、断固たる表明であった。
 第二次世界大戦が終わって、フランスに平和が戻ると、カザルスを慕う音楽家たちが次々とプラードを訪れ、教えを求めた。
 彼は、若き俊英たちのために、一九五〇年六月、音楽祭を開催した。これが後に世界的な音楽祭となる「プラード音楽祭」である。
3  歓喜(3)
 カザルスは、一九五八年十月二十四日の国連デーにニューヨークの国連本部に招かれ、記念演奏を行うとともに、プログラムに平和を祈念するメッセージを印刷し、配布した。
 そのメッセージは、核廃絶を訴え、平和を希求する、カザルスの魂の叫びでもあった。
 彼は、そこで音楽の使命に触れ、次のように提案している。
 「あらゆる人々から理解されるすばらしき世界語である音楽は、人と人とを近づけることに貢献すべきです。されば私は、特に私の同志に、またすべての音楽家に呼びかけて、人類のために彼らの芸術の純粋さを役立てるように、ひとりひとりに求めているのです。
 ……ベートーヴェンの《第九シンフォニー》の《歓喜の歌》は、人類愛の象徴となりました。私はそこで、ここに提案するのです。それは、オーケストラと合唱団を持つすべての町が、同じ日にこの《歓喜の歌》を演奏して、それがラジオ、テレビによって世界中のもっとも小さな社会にも放送されるということです。
 私はこの歌が祈りとして、私たちすべての者が望み、待ち受けている平和への祈りとして演奏されることを望むものです」
 カザルスは、ベートーヴェンの″歓喜の歌″をもって、平和を願う人類の心を結ぼうとしたのである。
 ピカソとカザルス−−この同じパブロという名を持つ二人の巨匠は、激動の同時代を生き、ともに一九七三年に世を去っている。
 山本伸一は、スペインの現代史に燦然と輝く、この二人の生き方に、深く共鳴していた。
 そこには、邪悪と戦い、平和を、ヒューマニズムを守り抜く、不屈の精神がある。正義の心がある。
 伸一は思った。
 ″このスペインには、彼らの精神を受け継ぐ、多くの地涌の友が、情熱の平和の使徒が、必ず誕生するはずである。
 そして、あらゆる試練を乗り越えて、民衆の勝利の旗を打ち立て、ここに平和の楽土を築いてくれるに違いない″
 それが果たして、いつになるかは測りかねた。しかし、二十一世紀の幕開けには、地涌の同志の奏でる幸と歓喜のシンフォニーが、この国のここかしこに、こだますることを、伸一は確信できた。
 彼は祈った。
 ″出よ! 妙法のピカソよ、妙法のカザルスよ″
 そして、まだ見ぬスペインの友に、″頑張れ! 負けるな! 新しき世紀の扉を開け!″と、語りかけたい思いにかられた。

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