Nichiren・Ikeda
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1 開道(1)
地平線の彼方に、太陽は昇った。
しかし、行く手には、多くの不信と憎悪の、荒涼たる精神の原野が広がっている。切り開くべき道は、遠く、長い。
彼は、原野に足を踏み入れた。草を分け、を払いながら、一歩、一歩と、前へ進む。
山本伸一のヨーロッパ訪問は、平和へのを開き、ヒューマニズムの種子を蒔く、開道の旅路であった。
一九六一年(昭和三十六年)十月八日、ベルリンの壁の前に立った伸一は、その夜、ホテルの彼の部屋で、同行のメンバーとともに、深い祈りの勤行をした。
彼は、強い誓いの一念を込めて、ドイツの統一と世界の平和を祈った。
″東西冷戦による分断の象徴となった、このベルリンを、必ずや平和の象徴に転じなければならぬ……″
現在の世界の悲劇も、結局、人間が引き起こしたものだ。ならば、人間が変えられぬはずはない。
伸一は、地球を背負う思いで、挑戦を開始したのである。
唱題を終えると、彼の額には汗がにじんでいた。
それから、懇談が始まった。皆、悲惨なベルリンの現実を目にし、複雑な思いをいだいていた。ある人は興奮気味にベルリン市民の苦しみを嘆き、ある人は悲観的に展望を語った。
同行のメンバーの一人が、伸一に尋ねた。
「先生は、ブランデンブルク門の前で、この壁は三十年後にはなくなるだろうと言われましたが、そのための、何か具体的な対策があるのですか」
彼は、笑みを浮かべて答えた。
「特効薬のようなものはないよ。ただ、東西冷戦の氷の壁を解かすために、私がやろうとしているのは『対話』だよ。西側の首脳とも、東側の首脳とも、一人の人間として、真剣に語り合うことだ。
どんな指導者であれ、また、強大な権力者であれ、人間は人間なんだよ」
伸一の話に、皆、ハッとした表情を浮かべた。
「戸田先生が、よく教えてくださったじゃないか。権力者だと思うから話がややこしくなる。仏法の眼で見れば、みんな凡夫です。
そして、人間である限り、誰でも、必ず平和を願う心があるはずだ。その心に、語りかけ、呼び覚ましていくことだよ。
東西両陣営が互いに敵視し合い、核軍拡競争を繰り広げているのはなぜか。
一言でいえば、相互不信に陥っているからだ。これを相互理解に変えていく。そのためには、対話の道を開き、人と人とを結んでいくことが不可欠になる」
2 開道(2)
同行の幹部たちは、真剣な顔で、山本伸一の話を聞いていた。
伸一は、皆に視線を注ぎながら、話を続けた。
「また、もう一つ大切なことは、民衆と民衆の心を、どう繋ぐことができるかです。
社会体制や国家といっても、それを支えているのは民衆です。その民衆同士が、国家や体制の壁を超えて、理解と信頼を育んでいくならば、最も確かな平和の土壌がつくられる。
それには、芸術や教育など、文化の交流が大事になる。その国や民族の音楽、舞踊などを知ることは、人間の心と心を近づけ、結び合っていくことになる。本来、文化には国境はない。
これから、私は世界の各界の指導者とどんどん会って対話するとともに、文化交流を推進し、平和の道を開いていきます」
それを聞くと、男子部長の谷田昇一が言った。
「しかし、政治家でなくして、一民間人の立場で、そうしたことが可能でしょうか」
「君は、一国の首脳たちが、会ってくれないのではないかと、心配しているんだね」
「はい……」
伸一は、確信に満ちた声で語った。
「大丈夫だよ。学会によって、無名の民衆が見事に蘇生し、その人たちが、社会を建設する大きな力になっていることを知れば、賢明な指導者ならば、必ず、学会に深い関心を寄せるはずです。いや、既に、大いなる関心をもっているでしょう。
そうであれば、学会の指導者と会い、話を聞きたいと思うのは当然です。
また、こちらが一民間人である方が、相手も政治的な駆け引きや、国の利害にとらわれずに、率直に語り合えるものだと私は思っている。
私は、互いに胸襟を開いて語り合い、同じ人間として、友人として、よりよい未来をどう築くかを、ともに探っていくつもりです。
民衆の幸福を考え、平和を願っている指導者であるならば、立場や主義主張の違いを超えて、必ず理解し合えると信じている。
こう言うと、日本の多くの政治家は、甘い理想論であると言うかもしれない。あるいは、現実を知らないロマンチストと笑うかもしれない。
しかし、笑う者には笑わせておけばよい。やってみなければわからない。
要は、人類が核の脅威にいつまでも怯え、東西の冷戦という戦争状態を放置しておいてよしとするのか、本気になって、恒久平和をつくりあげようとするのかという問題だよ」
3 開道(3)
ベルリンの夜は、更けていった。
部屋のなかには、平和への誓いに燃える、山本伸一の力強い声が響いていた。
「私はやります。長い、長い戦いになるが、二十年後、三十年後を目指して、忍耐強く、道を開いていきます。
そして、その平和と友情の道を、更に、後継の青年たちが開き、地球の隅々にまで広げて、二十一世紀は人間の凱歌の世紀にしなければならない。それが私の信念だ」
伸一の烈々たる決意を、皆、驚いたような顔で、ただ黙って聞いていた。
その時、頼んでおいたルームサービスのサンドイッチや飲み物が届いた。
伸一は、自らはジュースを手にし、皆にはビールを勧めた。
「では、ベルリンの未来のために乾杯しよう。今日は、平和への新たな出発の日なんだから」
皆、グラスを掲げ、新出発を祝した。しかし、その意味を、本当に感じている人は、伸一のほかには誰もいなかったかもしれない。
更に、語らいは弾んだ。伸一は腕時計を見た。
時計の針が午前一時を指しているのを知ると、彼は言った。
「日本は午前九時になった。本部に国際電話をしてベルリンの壁の前に立ったことを伝えてほしい」
副理事長の十条潔が受話器を取り、国際電話を申し込んだ。
本部に電話ががると、皆が次々に受話器を手にして、近況を伝えた。
伸一は、さすがに深い疲労を覚えた。
彼は、医師の川崎鋭治にビタミン剤を注射してくれるように頼んだ。
川崎は、デンマークのコペンハーゲンで、伸一にビタミン剤を打つように頼まれた時には、注射器も注射液も用意していなかったが、その後、購入しておいたのである。
ベッドに横になった伸一の左腕に、川崎が注射をすると、伸一は声をあげた。
「痛い! すごく痛い注射だな……」
「そんなに痛みますか。変ですね……」
川崎は、首をかしげながら言った。
伸一は笑い出した。
「頼りにならない医学博士だな。看護婦さんのなかには、川崎さんより、遙かに注射の上手な人がたくさんいるよ。
川崎さんは、医学の知識は豊富なんだが、人間の心というものが、よくわかっていないね」
「はあ、私は、どちらかといえば、臨床より研究の方が専門なもんで……」