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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「大光」 大光

小説「新・人間革命」

前後
1  大光(1)
 新しき元初の太陽が、悠然と光彩を放ち、昇る。
 大仏法とともに生きゆく創価学会は、世界の太陽である。
 その元初の輝きは、不信と憎悪の闇を晴らし、地上に燦たる平和の光を注ぐ。
 悲哀と絶望の谷間にも、希望の光を降らせ、苦しみの渦巻く人間の大地を、歓喜の花園に変える。
 この太陽をさえぎることは誰にもできない。黒き妬みの雲を見下ろし、彼は、堂々と、わが軌道を進む。
 山本伸一は、ヨーロッパに向かうジェット機の窓から、今、まさに昇らんとする太陽を見ていた。
 一九六一年(昭和三十六年)十月四日の午後十時半に羽田を飛び立ってから、五時間近くが過ぎている。
 ジェット機は、経由地であるアメリカのアラスカ州のアンカレジを目指して飛行していた。
 眼下に広がる雲海の彼方に、真っ赤な日輪が姿を現すと、雲は薄紅色に光り、空は紫に染まった。
 やがて、太陽は、黄金を溶かしたように、厳かに、燦然と輝き、その大光源から、無数の光の矢が十方に走った。
 刻一刻と、空は青さを増し、純白の綿のような雲が太陽を浴びて、キラキラと光り始めた。
 伸一は思った。
 ″太陽が一つ輝けば、全世界が照らし出されてゆく。それは、広宣流布も同じである。一人が立ち上がれば、すべての友を守ることができる。そして、社会の闇を破り、正義の夜明けを告げることもできる。
 大切なのは、真剣な一人だ。必死の一人だ。
 また、太陽は、万人の胸中にある。仏法を持った同志は、皆、太陽となって、友の幸福の道を照らす人たちである。
 このヨーロッパ訪問で、太陽となりゆく人材を、何人見つけ、育てることができるかが勝負だ″
 伸一の乗ったジェット機が、給油のためアンカレジに着陸したのは、現地時間の午前十時、日本時間では午前五時であった。
 約一時間後、アンカレジを出発。一路、最初の訪問国である、デンマークのコペンハーゲンに向かった。
 北極付近を飛行中に、窓の外は、夜の帳に包まれた。月が々と輝き、空を照らしていた。美しい月光であった。
 伸一は、一人、胸の思いを和歌に託した。
  北極に
    光まばゆき
      大月天
    はるか地球の
      広布望みて
2  大光(2)
 山本伸一の一行が乗ったジェット機が、コペンハーゲンに到着したのは、現地時間の五日の午前七時過ぎであった。日本時間では午後三時過ぎである。
 日本を発って、十七時間近くが経過していることになる。
 上空から見た時には、コペンハーゲンの街は、分厚い雲で覆われていたが、着陸すると、雲は晴れ、快晴となった。
 一行が空港のロビーに出ると、蝶ネクタイをした一人の日本人の男性が待っていた。川崎鋭治である。
 彼は、学会員で、フランスが誇る研究・教育機関である、パリのコレージュ・ド・フランスの研究員をしている医学博士であった。今回の伸一のヨーロッパの旅に、通訳と案内を兼ねて、同行することになっていたのである。
 川崎は、一九二三年(大正十二年)に、新潟県の高田市(当時)で生まれた。その後、一家は東京に移り、彼も中学まで東京で育った。そして、城の水戸で高校生活を送り、新潟医科大学(現在の新潟大学医学部)に進んだ。卒業後も研究室に残り、二十八歳で学位を取得して、医学博士となっていた。
 更に、甲状腺ホルモンの研究を始め、アメリカに渡って、ハーバード大学付属病院で研究に励んだ。
 やがて、帰国し、東大付属病院に勤務した後、甲状腺の病気の治療で有名な大分県の別府の病院に、副院長として迎えられた。
 そのころ、川崎は三十代半ばになっていた。そろそろ身を固めようと考えた彼は、妹の栄美子に、友達のなかに、これと思う人がいたら、紹介してくれるように頼んだ。
 妹も、両親も、既に学会に入会していた。
 栄美子は、兄の鋭治から結婚の希望を聞くと、ぜひ学会の女子部員と一緒にさせたいと思った。また、この機会に、兄も信心できるようになればという思いもあった。
 栄美子は、それまでに、何度か兄に信心の話をしてきたが、彼は取り合おうとはしなかった。
 川崎は、学会には、特に関心もなければ、偏見もなかった。宗教は、なんでもよいように考えていた。ただ、彼自身、仕事では、それなりの実績を上げながらも、いつも、心のどこかに空虚感があった。
 栄美子は言った。
 「私が推薦できるのは、皆、女子部員よ。だから、お兄さんがよかったら、青年部の面倒を見てくださっている、学会の山本総務に、お会いしてお願いしてみたら……」
3  大光(3)
 川崎鋭治は、自分の結婚のことで、学会の幹部に会うことには、ためらいがあった。
 しかし、妹の栄美子の勧めに従い、上京した折、彼女とともに、学会本部に山本伸一を訪ねた。
 一九五九年(昭和三十四年)の十月のことである。
 伸一は、川崎を温かく迎えた。
 「あなたが、栄美子さんのお兄さんですか。お話は栄美子さんから、よく伺っております。私にできることなら、なんでも応援させていただきます」
 しばらく懇談した後、伸一は尋ねた。
 「あなたには、本当の友達はいますか」
 瞬間、川崎は考えた。本当の友人といえる人はいなかった。
 「いいえ、おりません。初めはよくとも、最後は、利害で離れていってしまうケースばかりでした」
 「そういうものかもしれません。しかし、私は、一生、あなたと友達でおります。あなたの人生の成功を祈っています」
 伸一と語り合ったのは、決して長い時間ではなかったが、川崎は、伸一の人柄に心を打たれた。自分に信仰を無理強いするわけでもなければ、宗教者にありがちな、どこか高みからものを言うような説教臭さもなかった。
 礼儀正しく、思いやりにあふれ、それでいて、満々たる情熱をたたえていた。
 年齢は自分よりも何歳か若いはずだが、兄と話しているような気さえしてくるのである。
 川崎は、伸一を通して、創価学会に、好感をいだき始めた。
 彼は、妹の尽力もあり、六〇年(同三十五年)の一月、女子部員と結婚した。結婚を前にして、彼は入会したが、特に信心に励もうという気はなかった。結婚相手も学会員であるし、悪い信仰ではなさそうなので、一応、入会しようという軽い気持ちであった。
 大分の別府で、川崎の新婚生活が始まった。
 結婚後、しばらくして、彼は、腹痛に襲われた。同僚の医師は、虫垂炎(盲腸炎)と診断し、すぐに手術をした。十日ほどで退院したが、その日、再び、ひどい腹痛が起こった。夜も眠ることができなかった。
 再入院して、検査をしたが、痛みの原因はわからなかった。医師は、モルヒネを打って痛みを抑えたが、薬が切れると、七転八倒の苦しみである。
 川崎は、苦痛から逃れるために、自分でモルヒネを打つようになった。その量は次第に増え、いつしか、モルヒネがなければ、片時も、痛みを我慢できないようになった。

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