Nichiren・Ikeda
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第4巻 「立正安国」
立正安国
小説「新・人間革命」
前後
1 立正安国(1)
梅雨は、まだ明けそうになかった。
総本山の参道には、深い霧が立ち込めていた。
一九六一年(昭和三十六年)七月三日、山本伸一は総本山にやって来た。戸田城聖の墓参のためである。
翌四日の朝、戸田の墓前に立った伸一は、深い祈りを込めて題目を三唱すると、しばらく墓石に向かっていた。
それは、何かを語りかけているようでもあった。
十六年前にあたる終戦直前の四五年(同二十年)七月三日、戸田は恩師牧口常三郎の広布への遺志を受け継ぎ、生きて獄門を出た。
軍部政府の弾圧による、戦時下での二年間の獄中生活は、戸田の体を、いたくさいなんだ。彼の体は、やせ細り、地を踏む足元もおぼつかなかった。
しかし、肋骨の浮き出た彼の胸には、広宣流布への激しい闘志が、炎のごとく燃え上がっていた。それは敬愛する恩師を殺し、民衆に塗炭の苦しみを味わわせた権力の魔性への、怒りの火でもあった。
あの弾圧によって、同志のほとんどが退転し、頼りとすべき人物は、誰もいなかった。戸田は、広宣流布の命脈は、自分の双肩にかかっていることを自覚していた。
戸田は、ただ一人、法旗を掲げて立つことを決意した。そして、この日から、地下水が泉となって地表にあふれ出すように、広宣流布の法水が、敗戦の焼け野原を潤していった。
七月三日──それは、学会の新生の日であり、広宣流布の獅子王が、軍部政府という権力の鉄鎖から、野に放たれた日である。
伸一は、広宣流布とは、権力の魔性との戦いであることを痛感していた。
人間の尊厳を脅かす、権力や武力などの外的な力に対して、内なる精神の力をもって、人間性の勝利を打ち立てていくことが、仏法者の使命であるからだ。
牧口、戸田の逮捕は、天照大神の神札を祭らぬということが、直接の契機であった。だが、それは一つの象徴的な事例にすぎない。
より本質的には、国家神道を精神の支柱として、民衆を隷属させ、戦争を遂行する軍部政府にとって、万人の尊厳と自由と平等を説く仏法を流布する団体を、放置しておくことができなかったからに違いない。
時代は移り、戦後、日本は民主主義国家となったものの、民衆を隷属させようとする魔性の力の本質は、依然として変わることはないと、伸一は思った。
伸一が、それを身をもって感じたのが、彼が選挙違反という無実の罪で逮捕された、あの大阪事件であった。奇しくも、その逮捕の日も、五七年(同三十二年)の七月三日であった。
2 立正安国(2)
山本伸一は、大阪地検の取り調べを思うと、激しい怒りに震えた。
無実であるにもかかわらず、罪を認めなければ、戸田城聖を逮捕するなどの、脅迫とも言うべき検事の言動には、なんとしても学会を陥れようとする、邪悪な意図があることは明らかであった。
新たな民衆勢力の台頭を恐れてのことであろう。
学会によって、民衆が社会の主役であることに目覚め、現実の政治を動かす力になりつつあったことは、国家権力にとって大きな脅威であったに違いない。
古来、仏教をはじめ、日本の宗教は、国家権力に取り込まれ、むしろ、積極的に与することによって、擁護されてきた。
福沢諭吉は『文明論之概略』のなかで、次のように述べている。
「宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存すべきはずなるに、我日本に於ては則ち然らず」
そして、宗教が政治権力に迎合してきたことに触れて、こう指摘している。
「その威力の源を尋れば、宗教の威力にあらず、ただ政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりといえども、その教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明にあらずして、政権の威光なるが如し」
仏教各派にとっても、そうすることが、権力の弾圧を回避し、自宗の延命と繁栄を図る術であったと言えよう。
学会も、権力の意向に従い、現実の社会の不幸に目をつぶり、単に来世の安穏や、心の平安を説くだけの″死せる宗教″であれば、何も摩擦は生じなかったであろう。
しかし、それでは、民衆の幸福と社会の平和を実現するという、宗教の本来の目的を果たすことはできない。
そして、宗教が民衆のための社会の建設に突き進んでいくならば、民衆を支配しようとする魔性の権力の迫害を、覚悟せざるをえない。
伸一にとって、この投獄は、民衆の凱歌を勝ち取る人間主義運動の、生涯の出発となったのである。
また、彼が、決して忘れることができないのは、弟子を思う、熱い、熱い、師の心であった。
羽田の空港で、大阪府警に出頭するため、関西に向かう伸一に、戸田はこう語った。
「……もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
3 立正安国(3)
山本伸一は、羽田の空港での戸田城聖の胸中を思うと、感涙に目頭が潤んだ。
しかも、戸田は、伸一の勾留中、大阪地検に抗議に来ていたのである。
七月十二日、東京の蔵前国技館で、伸一を不当逮捕した、大阪府警並びに大阪地検を糾弾する東京大会を行った戸田は、その後、やむにやまれぬ思いで、大阪にやって来たのである。
戸田は、検事正に面会を求めた。
当時、既に、戸田の体はいたく憔悴していた。同行した幹部に支えられ、喘ぐように肩で息をし、よろめきながら、地検の階段を上がっていった。
戸田は、可能ならば、伸一に代わって、自分が牢獄に入ることも辞さない覚悟だった。弟子のためには、命を投げ出すことさえ恐れぬ師であった。
彼は検事正に、強い語調で迫った。
「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか!
私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」
そして、伸一の一刻も早い釈放を求めたのである。
戸田は、地検から帰る道すがら、何度も、悔しそうに、こうつぶやいた。
「何も罪など犯していないことは、伸一のあの人柄を見れば、よくわかるじゃないか!」
伸一が、その事実を知ったのは、出獄後のことであった。
彼は、師の心に泣いた。
また、戸田の抗議は、伸一に、民衆を守る指導者の姿を、身をもって教えてくれたようにも感じられてならなかった。
今、戸田の墓前に立つ伸一の胸には、「権力の魔性と戦え! 民衆を守れ!」との、恩師の言葉がこだましていた。
彼は、深い誓いを込めて題目を三唱した。
そして、恩師の心に応えるためにも、いよいよ山場を迎えようとしている、大阪事件の裁判で、断じて、無罪を勝ち取らなければならないと思った。
伸一は、この日、東京に戻ると、夜には七月度の男子部幹部会に出席した。
幹部会は、未来を開きゆく、座談会運動に取り組む青年たちの、意欲あふれる集いとなった。
青年部長の秋月英介が、この下半期は、民衆の語らいの園ともいうべき小単位の座談会に全力を注ぎ、男子部の手で大成功させようと呼びかけると、朗らかな拍手がわき起こった。
青年たちは法旗を高々と掲げて、民衆のなかへ、人間のなかへ、本格的な前進を開始したのだ。
広宣流布の主戦場とは、組織の最前線に、民衆のなかにこそある。