Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第4巻 「春嵐」 春嵐

小説「新・人間革命」

前後
1  春嵐(1)
 民衆のなかへ。
 この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、新しき歴史は生まれゆく。
 民衆ほど、偉大な力はない。
 民衆ほど、確固たる土台はない。
 民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。
 民衆の前には、いかなる権力者も、富豪も、名声も、煙のようなものである。
 一九六一年(昭和三十六年)二月十四日、アジア訪問から帰った山本伸一は、早くも十六日には、愛知県の豊橋市で行われた豊城支部の結成大会に出席した。
 帰国直後の結成大会とあって、地元のメンバーには、山本会長の出席はないかもしれないという思いがあった。それだけに、伸一が会場の豊橋市公会堂に姿を現すと、大歓声と嵐のような拍手が起こった。
 この日、伸一は、常識ある行動の大切さを訴えた。
 「仏法は最高の道理であります。その仏法を信奉する私たちは、常に、礼儀正しい行動を心掛けていかなくてはなりません。
 たとえば、座談会に行っても、まるで自分の家のように振る舞い、会場を提供してくださっているご家族に、迷惑をかけたりするようなことは、あってはならないと思います。
 更に、折伏をするにしても、また、指導をする場合も、暴言を用いて、人を見下したような態度は、絶対に慎まなければならない。
 そうした非常識な言動というものが、どれだけ学会に対する誤解を生んでいるか、計り知れません。
 周囲の人が見ても、″学会の人は礼儀正しく、立派であるな″と思えるようでなければ、本当の信仰の姿とはいえないと思います」
 伸一は、この後、御本尊は、わが胸中にあることを述べ、一人一人が信心で生命の宝塔を開き、幸福な一生を送るよう念願して、話を結んだ。
 彼がここで、あえて「常識」を強調したのは、信仰の深化は人格を磨き、周囲に信頼と安心を広げていく最高の常識を育む力となるからである。
 また、このころ各地で、学会員に対する村八分などの排斥の動きが激しさを増していたからでもあった。その経過を見ると、ちょっとした非常識な言動が誤解をもたらし、それが、排撃の糸口にされることが少なくなかった。
 もちろん、そのことが、村八分などの仕打ちの、本当の原因ではなかった。より根本的には、学会への無理解と偏見による、感情的な反発であった。更に、学会の折伏を恐れる他教団の意図もあった。
2  春嵐(2)
 山本伸一が会長に就任して以来、折伏の波は、怒涛となって広がっていった。
 ゆえに「魔競はずは正法と知るべからず」との御聖訓のうえからも、法難が競い起こるのは当然であり、それは、避けることのできない試練でもあろう。
 しかし、非常識な言動から、社会の誤解を招き、無用な摩擦をもたらすようなことは、あまりにも愚かといえよう。仏法は本来、最高の道理であるからだ。
 伸一は、支部結成大会の終了後、幹部との懇談の機会を持った。彼は、支部の新出発を祝福して言った。
 「豊城支部というのは、すばらしい名前です。皆で力を合わせて、福運に満ち満ちた豊かな城を、築いていってください」
 それから、皆の質問を受けた。伸一のアジア訪問の直後だけに、世界広布に関する質問が多かった。
 一人の青年が尋ねた。
 「世界の広宣流布ができた場合、戸田先生の言われた地球民族主義という考え方からすれば、世界連邦のような形態がつくられていくのでしょうか」
 質問した青年は、まだ学生のようであった。観念的といえば、あまりにも観念的な質問であったが、伸一は微笑みながら答えた。
 「どうすればよいかは、君に任せます。よく考えておいてください。そして、その時には、世界連邦長になれるぐらい、しっかり勉強し、力をつけておくことです」
 更に、こう付け加えることを忘れなかった。
 「壮大な未来を目指すためには、現実の日々の戦いが大切です。固めるべきは足元です。人生には、さまざまな環境の変化もある。また、学会が難を受けることもあるでしょう。
 しかし、何があっても、退かないことだ。決して逃げないことだ。
 生涯、学会員の誇りを忘れず、傍観者となるのではなく、広宣流布の責任を持って、主体者として生き抜いていくことが大事です」
 伸一は、関西に次ぐ広宣流布の柱として、中部の建設に心を砕いていた。そのために、青年の育成に、ともかく力を注ごうとしていたのである。
 翌十七日、伸一は総本山に向かった。今後の総本山の建設計画の打ち合わせを行うとともに、墓参して戸田城聖に帰国の報告をするためである。
 戸田の墓前で、彼は東洋広布のが開かれたことを報告し、更に、不二なる師弟の道を行くことを決意するのであった。
3  春嵐(3)
 総本山から東京に戻った山本伸一は、十八日から始まる東北六支部の結成大会に出席するため、直ちに東北へ向かう予定でいた。
 しかし、アジアへの長い旅の後とあって、早急になさねばならぬ仕事が山積していた。
 やむなく、十八日の会津と平の二支部合同の結成大会は理事長らに任せて、伸一は、十九日の仙北と石巻の二支部合同の結成大会から出席することにした。
 しかし、福島の会津・平の友が落胆するのではないかと思うと、彼は身を切られるように辛かった。
 会える同志より、会えない同志を、功徳の喜びを語る友より、いまだ苦悩にあえいでいる友のことを、彼はいつも考えていた。
 十九日、伸一は仙台に向かった。列車が福島の県内を通過する間、彼は、そっと心で題目を送った。福島の同志の新たな旅立ちを祝しての唱題であった。
 仙北・石巻の両支部の結成大会は、午後六時から、仙台市公会堂で行われた。
 宮城は、戸田城聖が第二代会長に就任して、最初の地方支部の仙台支部が誕生したところである。そこに、新たにまた、二つの支部が生まれたのである。
 会場は熱気と歓喜に満ちあふれていた。壇上に並んだ支部の幹部のなかで、石巻支部の支部長の吉成靖司が、何やら、盛んに口を動かしていることに、伸一は気づいた。おそらく小声で唱題しているのであろう。
 吉成は、実直な人柄であったが、口べたで、人前に立つと、いつも上がってしまうのである。
 支部長の抱負を前に、いたく緊張しているにちがいない。伸一は、壇上で吉成と目が合うと、微笑んだ。彼もホッとしたように、笑みを返した。
 吉成は、石巻の広布の先駆者であった。
 戦時中の一九四二年(昭和十七年)、東京にいた長兄の泰造が、初代会長の牧口常三郎が出席した座談会で入会。そして、翌年の四三年(同十八年)に、この長兄の折伏で、六人兄弟の三男である吉成が信心を始め、二人の弟も仏法に目覚めていった。
 その直後、軍部政府の学会への大弾圧が始まった。牧口会長、戸田理事長以下、幹部が相次ぎ投獄されていったのである。
 しかし、この暗黒の時代にあっても、彼らは揺るがなかった。
 温厚で寡黙だが、こうと腹を決めたら一歩も退かない東北人の気性を、吉成の兄弟はそのまま受け継いでいた。その信仰の炎は戦後になると、いよいよ強く燃え盛った。

1
1