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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「平和の光」 平和の光

小説「新・人間革命」

前後
1  平和の光(1)
 山本伸一の一行は、大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の大塔が夕日に染まり始めたころ、ブッダガヤを後にした。
 東洋広布への道標を打ち立て、平和の光を投じ、新しき歴史の一ページを開いた、この一九六一年(昭和三十六年)二月四日という日を、伸一は永遠に忘れることはできないと思った。
 彼の乗った車には、日達上人と清原かつ、三川健司が同乗していた。日達上人が伸一に話しかけた。
 「もし、時間があれば、霊鷲山に寄りたいですね」
 「わかりました。霊鷲山で写真を撮りましょう」
 伸一が答えると、日達上人は顔をほころばせた。
 「それはいい。『霊山一会儼然未散』(霊山一会儼然として未だ散らず)の意義をとどめての記念撮影ですね」
 車は夕焼けに染まる大平原を、パトナに向かって走った。
 車中、伸一はインド人の運転手をねぎらい、盛んにジュースや菓子を勧めた。しかし、なかなか手をつけようとしなかった。何度も勧め、菓子を別の箱に分けて渡すと、ようやく、喜んで手をつけた。
 三川が伸一に説明した。
 「インドでは、主人と使用人が一緒に食事をすることは、ほとんどありません。ですから、いくら勧められても、食べてはいけないと思っているのです。
 ところで、インド社会には、かつてのカースト制度による、身分の差別も残っていますし、イギリスの植民地時代には、インド人は不当に差別されてきただけに、インドの民衆こそ、本来、最も平等を求めているのではないでしょうか」
 「そうかもしれない」
 伸一は、その差別の歴史に悲しさと怒りを覚えた。そして、人間の平等を説く仏法の光をもって、一日も早く、インドの民衆を包まねばならないと思った。
 やがて、日が沈みかけたころ、ラージギールに着いた。このラージギールは、摩訶陀(マガダ)国の首都の王舎城(ラージャガハ)があって栄えた地域で、霊鷲山もここにある。
 その一角にコンクリート造りの建物があった。外にいた人に尋ねてみると、そこに、温泉がわいているという。
 建物の階段を上っていくと、下にシャワー室のようなコーナーが見えた。そこで何人もの人が、蛇口から出る湯を浴びていた。
 インドでは温泉は珍しいといわれる。
 日達上人が言った。
 「いや、不思議ですね。霊鷲山のすぐ近くに温泉がわいているなんて」
2  平和の光(2)
 水は、汚れを洗い、清める。それは、清浄な仏道の象徴ともされている。
 法華経の開経の無量義経には、「譬えば水の能く垢穢を洗うに(中略)法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う」(妙法華経並開結88㌻)とある。
 日達上人は、山本伸一に語り始めた。
 「華厳経では、菩提心を泉にたとえているんです。『菩提心は猶涌泉の如し、智の水を生じて窮尽無きが故に』とありましてね。つまり、悟りへの求道心が、わき出る泉のように、くめども尽きない智の水を生じさせると、説いているんです。
 ともかく、その泉が、それも、インドでは珍しい温泉が、霊鷲山のすぐ近くにわいているとは、感動しました。
 そういえば、五年前の総本山のわき水のことを思い出しますね。あの時、戸田先生は、今後の登山会のために、総本山に豊かな飲料水を確保しなければならないと言われ、ボーリングを提案された。
 それまでに、何度も地質調査した結果、あのあたりの溶岩層の下には、水脈はないといわれていました。事実、業者の方がボーリングをしても、水は出ませんでした。
 ところが、戸田先生が真剣に祈られ、業者が別の場所を掘ってみたところ、水源にぶつかった。
 戸田先生は、広宣流布が近い瑞相であると喜ばれ、『水道祭』を行おうと言われた。私はあの時に、正法の興隆があるところ、涌出泉水があると実感したものです」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「ここに温泉があるということは、釈尊も、この温泉を使っていたかもしれませんね」
 「きっと、そうだと思います。ここで、心身を蘇らせて、霊鷲山に登っては法を説いたのでしょう。
 ところで、もう、遅くなってしまったので、霊鷲山には登れませんね」
 日達上人は、残念そうに黄昏の空を見上げた。
 「しかし、御本尊のましますところ、広宣流布のために戦う人びとの集うところが、本当の意味での霊鷲山ですから、私どもは、いつも霊鷲山にいるではありませんか」
 伸一が言うと、日達上人は愉快そうに、声をあげて笑った。
 「ハッハハハ……、その通りです」
 一行がパトナのホテルに着いたのは、既に午後十時ごろであった。
 皆、大任を果たした喜びと安に、心地よい疲労を覚えていた。
3  平和の光(3)
 翌日の午前中、山本伸一たちは、ガンジス川に向かった。ガンジスの砂と小石を採取するためである。
 川岸には、この日も、火葬の火が燃えていた。
 一行が砂と小石を採取し始めると、もの珍しそうに人びとが集まってきた。
 なかには、子供たちもいた。皆、七、八歳くらいだろうか。子供たちは、面白がって、一緒に砂や小石を集めてくれた。
 子供たちの身なりは貧しかったが、キラキラと輝く澄んだ目をしていた。
 伸一は用意してきた、ボールペンなどの土産を、子供たちに配った。無邪気に小躍りして喜ぶ姿が可愛らしかった。
 ここにいる子供たちの置かれた環境は、決して恵まれているようには思えなかった。
 伸一は、この子たちが、どんな教育を受け、いかなる人生を歩むことになるのだろうかと思うと、胸が痛んだ。
 人間にとって、何が幸せであるかは、一概には言えない。しかし、子供たちが貧困にあえぐことなく、それぞれの能力を開花させるために勉学に励み、自在に社会に羽ばたいていける環境をつくり出さなくてはならない。それは、大人たちの義務であるはずだ。
 戸田城聖が、ガンジスの砂や世界各地の名材を集めて大客殿を建立せよと言ったのは、単に大客殿という建物を荘厳するためだけではなかった。そこには、世界各地の繁栄と平和を念ずる、彼の強い思いが込められていた。
 伸一は、そう考えると、自らの双肩にかかる使命と責任の重さを、感じるのであった。
 ガンジス川の砂と小石を採取した後、一行はパトナ博物館を見学した。
 パトナは、古くはパータリプトラと呼ばれ、いくつもの王朝が都とした、由緒ある土地である。博物館には、その歴史をしのばせるインド美術の粋が陳列されていた。
 ことに、マウリヤ朝の第三代の王であるアショカ大王と同時代のものと思われる、獅子や牛の形をした飾りなどが興味を引いた。
 このアショカ大王について、西洋の学者たちは、最初、仏教の伝説上の人物としていた。
 ところが、一八三七年にインドの古代文字が解読され、後年、アショカが残した多数の碑文から、その実在と、彼が法による統治を行っていたことが確認されたのである。
 いわば、哲人王として人類史上に輝くアショカも、ずっと、歴史の土に埋もれていたのである。

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