Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「仏陀」 仏陀

小説「新・人間革命」

前後
1  仏陀(1)
 空に浮かぶ雲が、金色に染まり始めた。
 埋納を終えた山本伸一の一行は、辺りを散策した。
 大塔の西側に回ると、伸びやかに枝を広げた、大きな木があった。堂々たる菩提樹である。
 もともと、ピッパラ樹ともアシュヴァッタ樹とも呼ばれていたが、釈尊がこの木の下で悟り(菩提)を得たことから、菩提樹と呼ばれるようになったものだ。
 しかし、今、生えている菩提樹は、当時のものではなく、後に新しく植えられたものであるという。
 その木陰に、石造りの台座があった。「金剛宝座」である。釈尊が悟りを得た場所につくられたものだ。
 大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の境内を離れ、しばらく行くと、尼連禅河(ネーランジャラー川)に出た。
 乾期のために、川に水はなく、白い川底がグラウンドのように見えた。
 対岸は川に沿って木が茂り、その向こうにラクダの背のような形をした岩山がそびえていた。
 ブッダガヤの管理委員会の係官が教えてくれた。
 「あのラクダのコブのような形をした山が、仏陀が修行した前正覚山と言われる山です。
 また、苦行をやめた仏陀は、この川の対岸で沐浴をします。そこで、断食などの激しい修行のために力尽き、やせ細った仏陀に、スジャーターという娘が乳粥を供養するのです。それによって仏陀は蘇るのです」
 今は岩山となった前正覚山には、当時は、もっと緑が茂っていたのかもしれない。しかし、視界に広がる景観は、釈尊の在世当時と、さほど変わっていないように、伸一には思えた。
 彼は、釈尊に思いを馳せた。人類を生命の光で照らし出した聖者の生涯が、臨場感を伴って、伸一の脳裏に浮かんだ。
 ──釈尊の生きた年代については定かではない。入滅についても、古くから、中国の『周書異記』による紀元前九四九年説や、『春秋』による紀元前六〇九年説があった。しかし、近代に入ると、入滅を紀元前四、五世紀とする説が有力になってきているが、それにも諸説がある。
 釈尊は、釈迦(シャーキャ)族の王子として生まれた。姓は「ゴータマ」(漢訳では「瞿曇」)である。
 長じて悟りを得ると、「ゴータマ・ブッダ(仏陀)」、あるいは、釈迦族出身の聖者(牟尼)の意味で、「シャーキャムニ(釈迦牟尼)」と呼ばれることになる。「釈尊」とは、その訳語である。
2  仏陀(2)
 釈尊の父は浄飯王(スッドーダナ)、母は王妃の摩耶(マーヤー)である。
 摩耶は迦毘羅城(カピラヴァットゥ)から里帰りする途中、藍毘尼(ルンビニー)で、釈尊を出産した。
 通説では、母の摩耶は、釈尊が生まれると一週間で亡くなり、彼は叔母の摩訶波闍波提(マハーパジャーパティー)によって育てられたという。
 まさに釈尊の波乱の生涯の幕開けであった。
 当時のインドは、仏伝などによれば、摩訶陀(マガダ)国や拘羅(コーサラ)国など、十六の大国が互いに覇を競い合っていたようだ。
 しかし、釈迦(シャーキャ)族は、この十六の大国には入らず、小国に過ぎなかった。だが、自らを「太陽の末裔」と名乗る、誇り高き一族であった。
 小国ではあっても、釈尊は、一国の王子として、何不自由ない生活を送り、文武両道にわたる教育を受けて育った。
 季節ごとに彼のための宮殿があり、また、炎暑などにさらされることがないよう、侍者は常に彼に傘蓋を差した。
 更に雨期ともなれば、女性だけの伎楽が用意され、外に出ることもない、安楽な暮らしがあった。
 しかし、感受性の豊かな彼には、深刻な悩みが生じていく。
 彼は、王宮の池のほとりを歩きながら、哲学的な思索を重ねた。
 ″人間は、いかに若く、健康であっても、やがて老い、病み、死んでいく。これは、誰も免れることのできない定めだ″
 彼は、老・病・死を、自身のなかに見いだし、凝視していた。
 ″しかし、世間の人は、他人の老・病・死を見て、厭い、っている。なぜなのだろう。愚かなことだ。それは、決して、正しい人生の態度ではない″
 こう考えると、彼は青春の喜びも、健康であることの誇りも、音を立てて崩れていくのを覚えた。
 そして、それを他人事としか見ない、人間の本質に潜む差別の心、傲慢さを痛感するのであった。
 釈尊は、万人が避けることのできない、この老・病・死の問題を解決せずしては、人生の幸福はあり得ないと思うようになる。
 彼の深き藤が始まったのである。
 ″自分は世継ぎとして王となり、社会の指導者とならねばならない。しかし、出家して聖者となって、この問題を解決し、精神の大道を開くべきではないか″
3  仏陀(3)
 伝説では、釈尊の出家の動機に「四門遊観」のエピソードがあげられている。
 ──釈尊が城から遊びに出ようとする。東の門から出ると、そこに、老人の姿を見る。南の門から出ると病人を見る。西の門では死人を見る。ところが、北の門では、出家した者が歩いている姿に出会い、それに心を打たれて、出家を決意したというのである。
 「四門遊観」の挿話は、後の時代に加えられたものと考えられている。だが、仏教の内容からすれば、釈尊の出家の動機には、老・病・死という人間の根源的な苦悩を、いかに乗り越えるかが深くかかわっていたことは間違いない。
 父の浄飯王(スッドーダナ)は、王子の釈尊が、出家を考えていることを感じていた。
 一説によれば、父王は、彼を引き止める策として、耶輸多羅(ヤソーダラー)を妃に迎えたともいう。
 やがて二人は一子をもうける。それが、後に釈尊の弟子となり、密行第一といわれた羅睺羅ラーフラである。
 周囲の目には、次の世継ぎも生まれ、釈尊は安定した人生を歩むかに見えた。
 しかし、釈尊の葛藤は続いていた。むしろ、王となる自己の責任を思えば思うほど、彼の苦悩は深まるばかりであった。
 ″人は争い、殺し合い、武力によって他を支配しようとする。
 しかし、栄栄華を極める権威権力も、また、いつの日か武力によって滅ぼされてしまう。
 更に誰人たりとも、老・病・死の苦しみから逃れることはできない。その苦しみから脱する道を求めることこそ大切ではないか″
 彼は、武力主義の覇道の世界に生きることより、人間主義の正道を求めた。そして、永遠なる精神の世界の探求のために、出家を決意したのである。
 釈尊は、父の浄飯王に、その意志を打ち明けた。父王の衝撃は大きかった。
 ″遂に予期していた事態になってしまった。大事な跡取りだというのに。
 わしは、王子には何不自由ない暮らしをさせてきたではないか。いったい何が不服だというのか!″
 浄飯王は、戸惑い、おののき、憤った。
 ともかく、息子の出家をやめさせなければならないと思った。以前にも増して豪奢な環境を与え、臣下に、王子をもてなすように命じた。
 しかし、釈尊の決意は変わらなかった。
 王は、遂に釈尊が城を出ることを、いっさい禁じたのである。

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