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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「仏法西還」 仏法西還

小説「新・人間革命」

前後
1  仏法西還(1)
 「時」は来た!
 待ちに待った、悠久の歴史の夜は明け、遂に船出の太陽は昇った。
 帆を上げよう。好機は一瞬にして過ぎ去り、再び帰ることはない。
  元朝に
    祈るアジアの
       広布かな
 会長山本伸一のアジアへの旅立ちとなる、一九六一年(昭和三十六年)「躍進の年」の元旦、彼は自宅でこう認め、妻の峯子に贈った。
 元日の東京は、朝から青空が広がり、街は、新春の光に包まれていた。
 午前十時、学会本部の広間では、伸一を導師に初勤行が始まった。
 広間を埋め尽くした同志の声が、一つに唱和し、力強く、すがすがしい音律が広がった。
 伸一は、大宇宙と冥合しゆく自身を感じながら、この一年の広宣流布の大勝利と、全会員の健康と一家の繁栄を念じ、真剣な祈りを捧げた。
 勤行が終わると、彼は新年のあいさつに立った。
 窓には、太陽の光が降り注ぎ、参加者の顔を明々と照らし出していた。
 彼は、厳粛な表情で、一言一言み締めるように、力を込めて語り始めた。
 「ただいま、皆様とともに、勤行いたしました御本尊様は、昭和二十六年(一九五一年)五月三日に恩師戸田城聖先生が会長に就任され、人類の救済への決意をもって立ち上がられて間もなく、日昇上人より授与された、創価学会常住の御本尊様であります。
 この御本尊の脇書には、『大法弘通慈折広宣流布大願成就』とお認めでございますが、ここに学会の使命は明白であります。
 私どもの目的は、どこまでも、人類の平和と幸福のために、広宣流布を実現していくことです。事実、この七百年の間に、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布を現実に成し遂げてきたのは、創価学会だけであります。
 その使命を果たしゆくには、まず皆様方ご自身が、物心ともに幸せになりきっていくとともに、友の幸福を願う、強き慈愛の心を持たねばなりません。人々の幸福を祈り、願う心こそ、学会の精神であります。
 戸田先生は『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』の三つを、学会の指針として示されましたが、そこに広宣流布の道があります。
 どうか幹部の皆さんは、この指針を深く胸に刻んで、全同志の幸福のために献身しゆく一年であっていただきたいと思います」
2  仏法西還(2)
 山本伸一は簡潔に話を終えた。
 それから、戸田城聖をしのび、代表の人が、恩師の和歌を朗詠した。
  雲の井に
    月こそ見んと
       願いてし
  アジアの民に
     日をぞ送らん
 この和歌を聞くと、伸一の心は躍った。それは、一九五六年(昭和三十一年)の年頭に、戸田が詠んだ懐かしい和歌であった。
 ──雲のもれ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遙かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
 ここでいう「月」とは釈尊の仏法であり、「日」とは日蓮大聖人の仏法を指すことはいうまでもない。
 戸田は、「諫暁八幡抄」などに示された、大聖人の仏法西還の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
 そして、今、伸一は、その実現のために、この一月には、インドをはじめとするアジアの地に、東洋広布の第一歩を印そうとしていたのである。
 更に、この後、「躍進の年」の新出発の決意を込めて、全員で「躍進の歌」を合唱した。
 一、恩師の御旨を
      しっかと抱き
   やるぞ やろうぞ
       広宣流布を
   波が騒げば
        血は躍る
   日本男児は
       意気でゆく
       意気でゆく
 この歌は、「中国健児の歌」として、中国総支部の友に愛唱されてきた。
 前年の十二月、岡山の中国本部の落成入仏式に出席した伸一は、この歌を聴くと、直ちに提案した。
 「力強い歌だ。率直な表現のなかに、広宣流布への心意気があふれている。全国で歌っていくようにしてはどうだろうか」
 総支部長の岡田一哲をはじめ、中国の同志は、手を取り合って喜んだ。
 伸一は、更に皆に同意を求めた。
 「しかし、『中国健児の歌』では、ほかの地域の人が抵抗を感じると思う。そこで、来年は『躍進の年』でもあるし、『躍進の歌』にしてはどうか」
 皆、賛同した。そして、十二月度の本部幹部会で、正式に「躍進の歌」として発表されたのである。
3  仏法西還(3)
 「躍進の歌」の大合唱をもって、午前十一時過ぎ、初勤行は終了した。
 山本伸一は立ち上がり、退場しようとしたが、足を止めて、もう一度、皆に向かって言った。
 「昨年は、皆さんの大奮闘で、大勝利を飾ることができましたが、本当の勝負はこれからです。今年は、『勝って兜の緒を締めよ』を合言葉とし、胸に刻んで進みたいと思います」
 「はい!」という、明るい元気な声が響いた。
 「力の限り、戦いましょう! 私は、この一年で百年分の歴史をつくります」
 気迫にあふれた言葉であった。
 参加者は、会長山本伸一の並々ならぬ決意を感じとった。
 二日の朝、伸一は総本山に向かった。翌三日にかけて、全国の支部幹部以上の幹部が登山することになっていたのである。
 ちょうど、この年から、月例登山会の日が増え、毎月、二十日間にわたって、登山が実施されることになった。二日は、その新たな月例登山会の、最初の日でもあった。
 登山会は、前年の八月までは、毎週、土曜から月曜にかけて、一泊と日帰りで行われていた。しかし、会員の増加にともない、参加希望者も増し、前年の九月からは、火曜にも登山を実施した。だが、それでも、まだ、間に合わず、新年から、月に二十日間としたのである。
 この月例登山会の期間中、総本山には、一泊と日帰りの登山者を合わせ、一日約六千人が、北は北海道、南は九州からやって来ることになる。
 一日の夜、山本伸一は床に就いても、なかなか眠れなかった。まどろんでも、すぐに目が覚めた。夜中も登山者の乗った列車やバスが運行し続けていると思うと、眠ることができないのである。彼は、目覚めるたびに、無事故を念じて、心で唱題するのだった。
 二日の正午前、伸一は総本山に到着した。
 大御本尊に参拝した後、彼は、胸を高鳴らせて、戸田城聖の墓に詣でた。
 墓前に立ち、合掌しながら、彼は万感の思いで語りかけた。
 ″先生! 伸一は、この二十八日に、先生のご遺言である東洋広布の旅に、いよいよ出発いたします。先生に代わって、アジアの民に幸福の光を送り続けてまいります……″
 彼の胸には、東洋の民衆を思い続けた恩師の顔が、鮮烈に浮かんでいた。

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