Nichiren・Ikeda
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1 錦秋(1)
新天地アメリカに、幸福の種子を幾重にも蒔きながら、山本伸一の平和旅は続いた。
彼の行くところ、希望の光が注ぎ、楽しき歓喜の波が広がった。
十月六日の朝、伸一たちの一行は、サンフランシスコを発って、シアトルに向かった。
ジェット機で西海岸を北上する、約二時間ほどの空の旅である。
海外係からの報告では、シアトルには二十人ほどのメンバーがいるが、まだ座談会さえ開けない状態であるとのことであった。
また、今回の訪問についても、手紙でしか連絡が取れず、出迎えがあるのかどうかもわからないという。不安をつのらせる旅であったといってよい。
午前十時過ぎ、ジェット機はシアトルに到着した。
ところが、空港には、意外にも十数人の友が出迎えていた。
「先生! ようこそ、おいでくださいました」
一行の姿を見ると、メンバーが駆け寄ってきた。
「やあ、ありがとう」
伸一は、手をあげ、笑顔で応えた。
「あのー、私のことを覚えておいででしょうか。去年の三月に、日本を発つ時に、本部で会っていただいたものですが……」
一人の婦人が、を紅潮させて言った。
「ええ、覚えていますよ」
その折、伸一は、婦人の話から、アメリカの軍人である夫との不和を感じた。そして、一家の和楽こそ、幸福の基盤であると訴え、激励に、青年部の体育大会の記念メダルを贈ったことを記憶していた。
彼女の傍らには、歩き始めたばかりの男の子と、三歳くらいの女の子が、スカートにまつわりつくように立っていた。男の子は、アメリカに渡ってから生まれたのであろう。
明るい婦人の表情から、一家の幸せが感じられ、彼は、喜びを覚えた。
一言の激励で、人生が大きく開けることがある。ゆえに、伸一は、瞬間の出会いを大切にし、心から友を励ますことを、常に心掛けてきた。
「可愛いお子さんだね」
彼は腰をかがめると、男の子を抱き上げた。
そして、片方の手で、コートのポケットを探り、リンカーン大統領の肖像が刻まれた一セント銅貨をつかみ出すと、それを男の子の手に握らせた。
「ごめんね。何もお土産がなくって……」
男の子は、伸一の腕のなかで、銅貨を握り、キャッキャッと声をあげて、無邪気に笑っていた。
2 錦秋(2)
小さな子供を抱き上げてあやす、山本伸一の親しみに満ちた姿に触れ、緊張していた婦人たちの表情は、すぐに和らいでいった。
カメラを手にした、若い婦人から声が上がった。
「先生、記念撮影をしてください」
「撮りましょう。せっかく、皆さんが来てくださったんですから」
伸一を中心にして、皆が並ぼうとすると、彼は、さっと後ろに退いた。皆、怪訝な顔で伸一を見た。
「皆さんが前に来てください。私は後ろでいいのです。後ろから皆さんを見守っていきたいのです」
それは、伸一の率直な気持ちであった。
会長として広宣流布の指揮を執ることは当然だが、彼の思いは、常に陰の人として、同志のために尽くすことにあった。
伸一の言葉に、メンバーは、驚きを隠せなかった。皆がいだいていた「会長」の印象とは、大きく異なっていたからである。
伸一の態度は、およそ世間の指導者の権威的な振る舞いとは正反対であり、ざっくばらんで、しかも、人間の温かさと誠実さが滲み出ていた。
写真を撮り終えると、伸一は言った。
「では、私たちが泊まることになっているホテルに行きましょう」
どっと歓声があがった。皆、大喜びである。だが、同行の幹部だけが、こんなに大人数でホテルへ押しかけて大丈夫なのかと、ハラハラしていた。
何台かの車に分乗して、ホテルに向かった。
シアトルは、海と山に囲まれた風光明媚な街であった。太平洋につながるエリオット湾に沿って、海の間近まで丘陵が迫り、樹林の彼方には、富士によく似たレーニエ山の白銀の頂が輝いていた。
緯度は北海道の北端より北に位置しているが、気温は、東京より少し低い程度であった。
太平洋から吹きつける冬の冷たい風を、対岸のオリンピック半島がさえぎり、内陸部からの寒風は、東に横たわるカスケード山脈が防いでいるためである。最も寒い一月でも、平均気温は摂氏五度という。
それでも、常夏の島・ハワイを経てやって来た伸一には、肌寒く感じられた。
一行が宿泊するホテルは市街の中心にあり、窓からは、船の行き交うエリオット湾がよく見えた。
メンバーが伸一の部屋に入ると、そこは、さながら座談会場のようになってしまった。
3 錦秋(3)
メンバーは、それぞれ山本伸一に自己紹介し、近況を報告していった。
皆、彼の来訪を待ちわびていた人たちである。話しながら、感極まって、泣き出す人もいた。
伸一は、一人一人の話を聞き終わると言った。
「さあ、せっかくの懇談の機会ですから、どんなことでも、聞きたいことがあったら聞いてください」
メンバーは、この機会を待っていたかのように、次々と質問をぶつけた。仕事の悩みもあれば、病気の問題もあった。
一人のアメリカ人の壮年からは、英字で表記した経本をつくって欲しいとの、要望が出された。
それまで、英字の経本がなかったために、日本語がわからないメンバーは、人の勤行を聞いて、耳で覚えるしかなかったのである。
「わかりました。それはお困りでしょう。すぐに検討します」
伸一は帰国後、直ちにこれを進めていった。
彼は、どこにあっても、常に同志との率直な語らいを心掛けた。その対話のなかから人々の心をつかみ、要望を引き出し、前進のための問題点を探り当てていったのである。
そして、問題解決のために迅速に手を打った。提起された問題が難題である場合には、何日も考え、悩んで、なかなか寝つけないことも少なくなかった。
まことの対話には、同苦があり、和気があり、共感がある。対話を忘れた指導者は、権威主義、官僚主義へと堕していくことを知らねばならない。
伸一の思いは、いつも、広宣流布の第一線で苦闘する同志とともにあった。いな、彼自身が最前線を駆け巡る、若き闘将であったといってよい。
質問に答えながら、伸一は、空港に出迎えてくれたメンバーのなかで、まだ、ホテルに到着しない友がいることが、気になって仕方なかった。
「まだ、来ない人がいるけど、どうしたんだろう」
彼は、話しながら、何度か、こう繰り返した。
質問が出尽くしたころ、バタンと大きな音がして、部屋のドアが開いた。
皆が一斉に振り向いた。そこには、裸足で、片手にハイヒールを持ち、もう一方の手に重そうな大型の録音機を持った、やや大柄な日系婦人が立っていた。
彼女は、録音機を床に置くと、喘ぐように肩で大きく息をした。顔中に汗が噴き出していた。
「どうしたんですか」
伸一が尋ねた。