Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第1巻 「新世界」 新世界

小説「新・人間革命」

前後
1  新世界(1)
 新しき舞台は、広がっていた。
 銀波の彼方に、洋々たる世界が無限の翼を広げるように、大きな飛翔の時代を待っていた。
 ホノルルを発って五時間半、山本伸一は、飛行機の窓の下に広がるアメリカ大陸を見た。
 見渡す限り大地が続き、地平の彼方は淡く霞んで空に溶けていた。手前には、湾に沿って街が広がり、その先端にゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の赤い橋梁が、夕日を浴びてそそり立っていた。サンフランシスコである。
 伸一は、ちょうど百年前に、日本初の遣米使節団が最初に踏んだアメリカの地も、このサンフランシスコであることを思い出した。
 一八六〇年(万延元年)二月十三日、遣米使節団七十七人は、日米修好通商条約の批准書の交換のため、アメリカの軍艦ポーハタン号で横浜の港を発った。
 船は暴風雨に遭い、苦しい航海を強いられたが、ハワイを経て、三月二十九日にサンフランシスコに到着している。
 そこには、航海術の実地訓練を兼ねて、遣米使節団の雑具、食料等の輸送にあたっていた咸臨丸が、既に到着していた。
 この船には、艦長の勝麟太郎のほか、福沢諭吉らが乗船していたのである。
 鎖国によって閉ざされていた海外交流の門戸が開かれ、西洋の文化に接した福沢らの衝撃は大きかった。
 咸臨丸は、間もなく帰国の途についたが、ここでの彼らの見聞が、日本の近代化を促進する、一つの起爆剤となっていった。
 一方、使節団は、ポーハタン号で更に南下し、パナマ地峡を汽車で渡り、再び船で大西洋を北上してワシントンに到着。ここで、条約批准書の交換が行われたのである。
 しかし、以後、日米関係は紆余曲折をたどり、あの大戦では、互いに敵国として戦わなければならなかった。そして、アメリカによる、広島、長崎への人類初の原爆の投下という、悲惨極まる歴史の傷跡を残し、終戦を迎えた。
 敗戦国日本は占領下におかれ、戦後六年を経た一九五一年(昭和二十六年)九月八日に、このサンフランシスコで、ようやく講和条約が調印され、併せて日米安全保障条約が調印されたのである。
 日本は、これによって被占領状態を脱したものの、安保条約は、日本にとって、はなはだ一方的で不平等な条約といえた。
 伸一が世界への第一歩を印したこの年、日本国内はこの安保条約の改定をめぐって、激しく揺れに揺れたのである。
2  新世界(2)
 日米安全保障条約は、対日講和条約と不可分なものとして調印されている。
 この安保条約の趣旨は──講和条約によって、日本は独立を獲得しても、武装を解除している日本には、自衛の有効な手段がない。そこで、米軍が引き続き日本に駐留し、代わりに日本の安全を保障する、というものであった。
 しかし、そこには、数多くの問題をはらんでいた。
 そもそも、サンフランシスコでの講和条約自体が、全連合国が調印する全面講和には至らず、アメリカをはじめとする西側諸国との片面講和であった。
 そのため日本は、冷戦構造のなかで、初めから西側陣営として、反共体制の一環に組み込まれることになったのである。
 更に、安保条約によって日本の防衛をアメリカに依存することは、軍事的にも、政治的にも、アメリカへの従属を固定化するものにほかならなかった。
 しかも、この安保条約には、アメリカ側の権利は明記されていたが、負うべき義務の規定はなかった。
 たとえば、米軍が出動できるのは″極東の平和と安全の維持″″内乱や騒擾を鎮圧するために日本政府から要請があった場合″″外部からの武力攻撃があった場合″としていたが、日本を守るための出動の義務を負うわけではなかった。
 更に、アメリカの同意がなければ、第三国の基地の使用や軍隊の通過の権利を与えないことが定められ、日本の主権は著しく制限されていたのである。
 また、条約の前文には、安保条約は「暫定措置」であるとしながらも、その期間は定めておらず、更に、「(日本が)侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」とあった。
 それは柔らかな表現ではあるが、日本の再軍備への要求といえた。つまり、日本が自衛のための戦力を保持するまでは、米軍の駐留が続き、撤退させるには、軍事力を増強しなくてはならないことになる。
 事実、日本は、そのアメリカの″期待″に応え、一九五〇年(昭和二十五年)に発足した警察予備隊を保安隊へと再編強化し、やがて、一九五四年(同二十九年)、自衛隊へと発展させていった。
 この講和条約、日米安保条約は、一九五一年(同二十六年)十月二十六日に衆議院で批准されたが、それは、ある意味で、占領下におかれた敗戦国日本の、やむなき選択であったといえよう。
3  新世界(3)
 日米安保条約が、日本にとって不平等な条約であることは、誰の目にも明らかであった。
 その改定に意欲を燃やしたのが岸内閣であった。
 岸首相は一九五七年(昭和三十二年)の二月に内閣が成立すると、直ちに自衛隊法、防衛庁設置法の防衛二法の改定に着手し、自衛隊員を約一万人増員し、軍備の増強を図ってきた。
 当時、日本は、既に高度成長の時代に入ろうとしていた。一九五六年(同三十一年)の『経済白書』には「もはや『戦後』ではない」と記され、日本の経済力は西欧諸国に迫ろうとしていたのである。
 この軍事力と経済力の拡大を背景に、岸首相は安保条約の改定に着手した。
 彼には、日本がアジアの反共軍事国家となることによって、アメリカと対等の関係に近づき、同時に、ソ連、中国に対しても強い外交姿勢を確立していくという意図があった。
 これは、サンフランシスコ講和条約を結んだ吉田元首相の、軍事力はアメリカに依存し、経済の発展に力を入れて日本の復興を図り、経済力で自由主義陣営の一員として尽力するという路線とは、大きく異なっていた。
 一方、アメリカは、それまで、安保条約の改定は時期尚早としてきたが、折しも、このころ、極東戦略の転換の時期を迎えていた。
 当時、ソ連の技術力は既にICBM(大陸間弾道ミサイル)を実用化し、モスクワから、直接、ワシントンを標的に狙えるまでに進歩していたのである。
 ソ連にミサイル技術で遅れをとったアメリカは、ソ連に対抗するためにICBMの開発に力を注ぐ一方、NATO(北大西洋条約機構)各国との基地協定締結を推進して、IRBM(中距離弾道ミサイル)によるソ連の包囲網づくりに力を注いでいた。
 同時に、極東戦略でも、アメリカは核ミサイルに重点を置くようになってきていた。それにともない、ミサイル基地は必要性を増すが、日本に地上軍を配置しておく意味は、次第に希薄になりつつあったといってよい。
 こうした背景から、安保条約の改定にアメリカが同意し、第一回の日米協議が行われたのは、一九五八年(同三十三年)十月四日のことであった。
 その一方で、岸内閣は、それに歩調を合わせるように、四日後の十月八日、突如、警察官職務執行法の改正案を衆議院に提出したのである。

1
1