Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

仏法即社会 (第28回)

2009.10.8 「御書と師弟」

前後
1  御聖訓「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
2  わが師・戸田城聖先生は、語られました。
 「強く正しき信仰は、必ず幸福をもたらす。断じて明朗な人生が開かれることを確信せよ」
 人生に勝ち、社会を照らしゆくことが、仏法者の生き方です。現実を離れて仏法はない。千変万化する世界を見つめ、価値創造の光を放つ力こそ、信心です。
 今回、共々に拝する「観心本尊抄」の一節は、この「仏法即社会」の法理を、明快に説いてくださった御金言です。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
 ひとたび天が晴れわたれば、大地が明るく照らされる。それと同じく、妙法を信じ行ずれば、世法で勝ちゆく道も晴れ晴れと開かれてくるとの仰せです。
 この「観心本尊抄」は、文永10年(1273年)4月、日蓮大聖人が流罪の地・佐渡でしたためられ、下総国しもうさのくに(現在の千葉県北部)の中心的な門下であった富木常忍に送られた御書です。
 一切衆生を救う御本尊の真義を明かされていることから、「法本尊開顕の書」と呼ばれます。
 大聖人が末法の御本仏であられることを宣言された「人本尊開顕の書」である「開目抄」と並ぶ、重書中の重書です。
3  広宣流布の大瑞相
 今回の御文は、「観心本尊抄」の結論部分の一節です。この直前では、当時、相次いだ前代未聞の災難を、仏法上、どう捉えていくかが、明確に示されております。
 それらは、末法における思想の乱れによるものである。しかし、今こそ、民衆のための大仏法が広宣流布する時にほかならない。
 「地涌の菩薩」が出現する時であり、「一閻浮提第一の本尊」が建立される瑞相である──と。
 めまぐるしく転変する眼前の事象に右往左往して、うろたえたり、嘆いたりするのではない。
 透徹した仏法の眼で、その深き意義を見極めつつ、大変であればあるほど、勇み立つ。そして、人間のため、社会のために行動を起こしていく。これが、師弟の誓願に生き抜く「地涌の菩薩」の大生命なのであります。
 じつは、私たちの創立の父である牧口常三郎先生が、昭和3年(1928年)に入信された当初から、大切に拝されていた御聖訓が、今回の御文です。
 牧口先生は記されています。
 「一大決心を以て、いよいよ信仰に入って見ると、『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか』との日蓮大聖人の仰せが私の生活中に”なるほど”と肯かれることとなり、言語に絶する歓喜を以て、ほとんど六十年の生活法を一新するに至った」と。
 最高峰の知性の牧口先生が、最先端の学究と思索の果てに到達されたのが、日蓮仏法です。先生は、信心の力によって、「暗中模索の不安」が一掃され、「引っ込み思案」もなくなり、「生活目的」が遠大となり、畏れがなくなったとも断言されています。
 これが信心の喜びであります。
 哲学にせよ、芸術にせよ、科学にせよ、尊き英知の光を発している。それぞれに一次元を、一定期間、照らすことはできる。しかし万人の生命の全体を普く照らし出し、生老病死の苦悩を打開できる永遠の大光《たいこう》は、一体、どこにあるか。それは、太陽の大仏法しか、ありません。

1
1