Nichiren・Ikeda
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抜苦与楽の英雄
(第11回)
2009.4.2 「御書と師弟」
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1 御聖訓「日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」
2 今年も、学会本部前の「青年桜」が馥郁と咲き香る季節になりました。創立八十周年へ進みゆくわが学会と、ほぼ同じ年輪を刻んできた大樹です。
八王子市の東京牧口記念会館や、わが故郷・大田の文化会館をはじめ全国の多くの法城も、そしてまた創価大学、東京・関西の創価学園も、爛漫たる桜の花に包まれます。
桜花とともに巡り来た「四月二日」は、戸田城聖先生の御命日です。恩師逝いて五十一星霜──私は、常住不滅なる師弟の対話を重ねながら、生死を超克した弟子の闘争を貫いてきました。
「我らが信心をなす目的は、永遠の生命の中に、幸福に生きんがためである」
ある時、先生は、こう語られました
「この大宇宙の運行それ自体が、慈悲の行そのものである。我らが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。何となれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に、他の貧窮の衆生にも、その幸福を分かち合おうとするのであるから、これ以上尊い仕事はない」
生老病死の苦悩に沈む友に、妙法の世界を指し示して導き行く信念の対話は、最高に尊い「慈悲の行」であります。
御本仏・日蓮大聖人のお遣いとして、声の力で「仏事(仏の仕事)」を行う尊極の振る舞いです。
3 貪・瞋・癡への挑戦
大聖人は「諫暁八幡抄」で、「涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」と仰せです。
ここで引かれてた涅槃経の文は、苦悩を受けている人々を見て、我が事として苦悩する如来(仏)の慈悲の大いなる力を讃えた一説です。
「一切衆生異の苦」とは、人々が受ける種々の異なった苦しみのことです。仏は、全て自身の問題として背負い、その解決を願われたのです。
これを踏まえつつ、大聖人はあえて「同一苦」と仰せになられました。これは、一切衆生の様々な苦悩が、同一の原因によって起こることを明快に示され、その一切を担い立たれた大宣言と拝されます。
末法の人々が等しく苦しむ「同一苦」とは、謗法による本源的な苦しみのことです。
貪(貪り)・瞋(瞋り)・癡(癡か)という生命の「三毒」が盛んになる末法にあって、この「同一苦」に立ち向かい、自他共の幸福の道を開く実践が、我らの折伏行です。
大聖人は仰せであります。
「飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる、今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり」
人間生命と社会現象の深き関連性を、ダイナミックに把握された御文です。飢饉や疫病や戦争は、「三毒」が強盛んなゆえに起きるのだと喝破されています。
人間の歴史は、一次元から見れば、この「三毒」によって憎しみ合い、傷つけ合ってきた業因・業果の流転の劇であったと言わざるを得ません。
この悲劇に終止符を打ち、地球に平和と共生の楽土としゆくためには、「生命」そのものを変革する大哲理が絶対に不可欠です。それこそが、私たちの唱える南無妙法蓮華経の大白法なのであります。
「如来一人の苦」
「日蓮一人の苦」
釈尊も、日蓮大聖人も、徹頭徹尾、ただ御一人で一切衆生の苦悩を受け止められ、その打開のための大法を弘め抜かれました。
ただ「一人」です。偉大な歴史は、常に偉大な一人から創られます。そして、その一人に続く不二の弟子によって受け継がれ、広がっていくのです。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」この小説『人間革命』の主題も、大聖人の御聖訓を現代に実践しゆく師弟の誓願にほかなりません。