Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御講聞書  (4/41) 譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じ…
810

証明・舌相梵天の誠証・要当説真実の金言・此等を義類同して題したる品の字なり、天竺には跋渠と云う此には品と云えり、釈迦・多宝・分身の三仏の御口を以て指し合せ同音に定判し給える我等衆生の成仏なり、譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応する故なり、今法華経の成仏も此くの如くなり、三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり、故に経に云く従仏口生如従仏口等云云。

一如是我聞の事

仰に云く如と云うは衆生の如と仏の如と一如にして無二如なり、然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり、如は如を不異に名く即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり、所詮法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり、是を如とは云うなり、されば如は実相・是は諸法なり、又如は心法・是は色法・如は寂・是は照なり、如は一念・是は三千なり、今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり、惣じて如是我聞の四字より外は今経の体全く無きなり如と妙とは同じ事・是とは法と又同じ事なり、法華経と釈尊と我等との三・全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり、仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり、我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主と釈せり、聞とは名字即なり、如是の二字は妙法なり、阿難を始めて霊山一会の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり仍つて我も聞くと云えり、されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり、所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり、我は真如法性の我なり、天台大師は同聞衆と判ぜり同じ事を聞く衆と云うなり、同とは妙法蓮華経なり、聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一如是の二字

を約教の下に釈する時・文句の一に又一時に四箭を接して地に堕せしめざるも未だ敢て捷しと称せず、鈍驢に策つて跋鼈を駈る尚し一をも得ず何に況や四をや云云、記の一に云く、大経に云く迦葉菩薩問


うて云く云何か智者・念念の滅を観ずと、仏の言く譬えば四人皆射術を善し聚つて一処に在りて・各一方を射るに念言すらく・我等は四の箭・倶に射て倶に堕せんと、復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し、仏の言く、捷疾鬼は復是の人よりも速なり是くの如く、飛行鬼・四天王・日月神・堅疾天は展転して箭よりも疾し、無常は此れに過ぎたりと、此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども・更に法蓮華の理に深く叶わざるなり、一二だも義理を尽さざるなり況や因縁をや、何に況や約教・観心の四をやと破し給えり、所詮法華経は速疾頓成を以て本とす、我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし、爰を以て出ずる息は入る息を待たず、此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり、超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり、妙楽大師云く若し超八の如是に非ずんば、安ぞ此の経の所聞と為さんと云云。

一耆闍崛山の事

仰に云く耆闍崛山とは霊鷲山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、鷲とは鳥なり此の山の南に当つて尸陀林あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云うは畜生にして迷なり、迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり、されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし、此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり・煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、諸仏は法性の依地・衆生は無明の依地なり、此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国な


り、法華経の本国土妙・娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云、瑜伽論に云く東方に小国有り、其の中唯大乗の種姓のみ有り、大乗の種姓とは法華経なり法華経を下種として成仏すべしと云う事なり、所謂南無妙法蓮華経なり小国とは日本国なり云云。

一与大比丘衆の事

仰に云く文句の一に云く釈論に明す、大とは亦は多と言い亦は勝と言う、遍く内外の経書を知る故に多と言う、又数一万二千に至る故に多と言う、今明さく大道有るが故に・大用有るが故に・大知有るが故に・故に大と言う、勝とは道勝れ・用勝れ・知勝る、故に勝と言う、多とは道多く・用多く・知多し故に多と言う、又云く含容一心・一切心なり、故に多と名くるなり、記の一に云く一心一切心と言うは心境倶に心にして各一切を摂す、一切三千を出でざるが故なり、具に止観の第五の文の如し、若し円心に非ざれば三千を摂せず、故に三千惣別咸く空仮中なり、一文既に爾なり他は皆此れに准ぜよ、此の本末の心は心境義の一念三千を釈するなり、止観の第五の文とは夫一心具十法界乃至不可思議境の文を指すなり、心境義の一念三千とは此の与大比丘衆の大の字より釈し出だせり、大多勝の三字・三諦・三観なり、円頓行者起念の当体・三諦三観にして大多勝なり、此の釈に惣と云うは一心の事なり、別とは三千なり、一文とは大の一字なり、今末法に入つては法華経の行者・日蓮等の類、正しく大多勝の修行なり、法華経の行者は釈迦如来を始め奉りて悉く大人の為に敬い奉るなり誠に以て大曼荼羅の同共の比丘衆なり、本門の事の一念三千・南無妙法蓮華経・大多勝の比丘衆なり、文文・句句・六万九千三百八十四字の字ごとに大多勝なり、人法一体にして即身成仏なり、されば釈に云く大は是れ空の義・多は是れ仮の義・勝は是れ中の義と、一人の上にも大多勝の三義・分明に具足す、大とは迹門・多とは本門・勝とは題目なり、法華経の本尊を大多勝の大曼荼羅と云うなり、是れ豈与大比丘衆に非ずや、二界・八番の雑衆悉く法華の会座の大曼荼羅なり、法華経の行者は二法の情を捨てて唯妙法と信ずるを大というなり、此の題目の一心に一切