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日蓮大聖人・池田大作

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一代聖教大意  (14/16) 自力も定めて自力にあらず
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        ┌─一 自性────自力────迦毘羅外道
        
        ├─二 他性────他力────楼僧伽外道
    四性計─┤
        ├─三 共性────共力────勒娑婆外道
        
        └─四 無因性───無因力───自然外道

外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり。今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す。

法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に但法華経の仏の爾前にして十界の形を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも言われしなり、実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなして・すぎし程に法華経に来つて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり往生もせざりけりなんと覚知するなり、一念三千は別に委く書す可し。

此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の


四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す、又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり開示悟入の文・或は皆已成仏道等の文、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一の字の下に皆妙の文字あるべしこれ能開の妙なり、此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり、阿含経・開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く大乗に入るに為本なり」と云云、華厳経・開会の文は一切世間・天人及び阿修羅は皆謂えり今の釈迦牟尼仏等の文、般若経・開会の文は安楽行品の十八空の文、観経等の往生安楽・開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等の文、散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、外典開会の文は「若し俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会の文・人天所開会の文しげきゆへにいださず。

此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見・或は兜率・忉利なんどにいたる文を見・或は安養に生ずる文を見て穢土に於て法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し或は人畜等に生れて隔生する間・自の苦しみ限り無しなんと云云或は自力の修行なり難行道なり等云云、此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは大乗経にも勧めたり西方を勧めたる事は大乗経に多し此等は皆・所開の文なり、法華経の意は兜率に即して十方仏土中・西方に即して十方仏土中・人天に即して十方仏土中と云云、法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人・五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆・女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。


此の意を存じ給いけるやらん法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には雑行・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処もあり委く見よ又慧心の往生要集にも法華経を除きたり、たとい法然上人・慧心・法華経を雑行・難行道として末代の機に叶わずと書き給うとも日蓮は全くもちゆべからず、一代聖教のおきてに違い三世十方の仏陀の誠言に違する故に・いわうや・そのぎなし、而るに後の人の消息に法華経を難行道・経はいみじけれども末代の機に叶わず謗らばこそ罪にてもあらめ、浄土に至つて法華経をば覚るべしと云云、日蓮が心は何にも此の事はひが事と覚ゆるなりかう申すもひが事にや有らん、能く能く智人に習う可し。

  正嘉二年二月十四日                 日蓮撰