Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法華経題目抄  (6/9) 故に此の経をば妙と云ふ
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阿闍世太子・すでに父の王を殺せしかば提婆達多は又仏をうかがい大石をもちて仏の御身より血をいだし阿羅漢たる華色比丘尼を打ちころし五逆の内たる三逆をつぶさにつくる、其の上瞿伽梨尊者を弟子とし阿闍世王を檀那とたのみ五天竺・十六の大国・五百の中国等の一逆・二逆・三逆等をつくれる者は皆提婆が一類にあらざる事これなし、譬えば大海の諸河をあつめ大山の草木をあつめたるがごとし、智慧の者は舎利弗にあつまり・神通の者は目連にしたがひ・悪人は提婆に・かたらいしなり、されば厚さ十六万八千由旬・其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて生身に無間大城に堕ちにき、第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る旃遮婆羅門女も・おちにき・波瑠璃王もをちぬ善星比丘もおちぬ、又此等の人人の生身に堕ちしをば五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国の人人も皆これをみる、六欲・四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき、三千大千世界・十方法界の衆生も皆聞きしなり、されば大地・微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず、劫石はひすらぐとも阿鼻大城の苦は・つきじとこそ思い合いたりしに、法華経の提婆品にして教主釈尊の昔の師・天王如来と記し給う事こそ不思議にをぼゆれ、爾前の経経・実ならば法華経は大妄語・法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり、提婆が三逆を具に犯して其の外無量の重罪を作りし天王如来となる、況や二逆・一逆等の諸の悪人の得道疑いなき事譬えば大地をかへすに草木等のかへるがごとく堅石をわる者・輭草をわるが如し、故に此の経をば妙と云ふ

女人をば内外典に是をそしり三皇五帝の三墳五典に諂曲の者と定む、されば災は三女より起ると云へり国の亡び人の損ずる源は女人を本とす、内典の中には初成道の大法たる華厳経には「女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云い、雙林最後の大涅槃経には「一切の江河必ず回曲有り一切の女人必ず諂曲有り」と、又云く「所有三千界の男子の諸の煩悩・合集して一人の女人の業障と為る」等云云、大華厳経の文に「能く仏の種子を断つ」と説かれて候は女人は仏になるべき種子をいれり、譬えば大旱颰の時・虚空の


中に大雲をこり大雨を大地に下すに・かれたるが如くなる無量無辺の草木・花さき菓なる、然りと雖もいれる種はをひずして結句・雨しげければ・くちうするが如し、仏は大雲の如く・説教は大雨の如く・かれたるが如くなる草木を一切衆生に譬えたり、仏教の雨に潤い五戒十善禅定等の功徳を修するは花さき菓なるが如し、雨・ふれどもいりたる種のをひずかへりて・くちうするは女人の仏教にあひて生死を・はなれずして・かへりて仏法を失ひ悪道に堕つるに譬ふべし、是を「能く仏の種子を断つ」とは申すなり、涅槃経の文に一切の江河のまがれるが如く女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば石山なんどの・こわき物にさへられて水のさき・ひるむゆへに・あれへ・これへ行くなり、女人も亦是くの如く女人の心をば水に譬えたり、心よわくして水の如くなり、道理と思う事も男のこわき心に値いぬればせかれて・よしなき方へをもむく、又水にゑがくに・とどまらざるが如し、女人は不信を体とするゆへに只今さあるべしと見る事も又しばらくあれば・あらぬさまになるなり、仏と申すは正直を本とす故に・まがれる女人は仏になるべからず五障三従と申して五つのさはり三つしたがふ事あり、されば銀色女経には「三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず」と説かれ大論には「清風は・とると云えども女人の心はとりがたし」と云へり。

此くの如く諸経に嫌はれたりし女人を文殊師利菩薩の妙の一字を説き給いしかば忽に仏になりき、あまりに不審なりし故に宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩、釈迦如来の御弟子の智慧第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乗経の経文をもつて竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども終に叶はず仏になりにき、初成道の「能く仏の種子を断つ」雙林最後の「一切の江河必ず回曲有り」の文も破れぬ、銀色女経・並に大論の亀鏡も空しくなりぬ智積・舎利弗は舌を巻きて口を閉ぢ人天大会は歓喜せしあまりに掌を合せたりき、是れ偏に妙の一字の徳なり、此の南閻浮提の内に二千五百の河あり一一に皆まがれり、南閻浮提の女人の心のまがれるが如し、但し娑婆耶と


申す河あり繩を引きはえたるが如くして直に西海に入る、法華経を信ずる女人亦復是くの如く直に西方浄土へ入るべし是れ妙の一字の徳なり、妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、譬えば黄鵠の子・死せるに鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還つて生ずるが如し、天台云く「闡提は心有り猶作仏すべし二乗は智を滅す心生ず可からず法華能く治す復称して妙と為す」と、妙楽云く「但大と云いて妙と名づけざるは一には有心は治し易く無心は治し難し治し難きを能く治す所以に妙と称す」等云云、此等の文の心は大方広仏華厳経・大集経・大品経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし、但生る者を治して死せる者をば治せず、法華経は死せる者をも治するが故に妙と云ふ釈なり、されば諸経にしては仏になる者も仏になるべからず其の故は法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ、なりやすき者は云ふにや及ぶと云う道理立ちぬれば法華経をとかれて後は諸経にをもむく一人もあるべからず。

而るに正像二千年過ぎて末法に入つて当世の衆生の・成仏往生のとげがたき事は在世の二乗闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の観経等の四十余年の経経によりて生死をはなれんと思うは・はかなし・はかなし、女人は在世・正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経を・はなれて仏になるべからず、霊山の聴衆道場開悟たる天台智者大師・定めて云く「他経は但男に記して女に記せず今経は皆記す」等云云、釈迦如来・多宝仏・十方諸仏の御前にして摩竭提国王舎城の艮・鷲の山と申す所にて八箇年の間・説き給いし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけるに我五十余年の一代聖教を説きをく事は皆衆生利益のためなり、但し其の中に四十二年の経経には女人・仏になるべからずと説きたまひしなり、今法華経にして女人仏に成ると・とくと・なのらせ給いしを仏滅後・一千五百余年に当つて鷲の山より東北・十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり震旦国是なり、此の国に仏の