Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

開目抄上  (22/24) 大疑いよいよ・つもり候
207

法久後・要当説真実と照させ給いて華光如来・光明如来等と舎利弗・迦葉等を赫赫たる日輪・明明たる月輪のごとく鳳文にしるし亀鏡に浮べられて候へばこそ如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給しか、水すまば月・影を・をしむべからず風ふかば草木なびかざるべしや、法華経の行者あるならば此等の聖者は大火の中をすぎても大石の中を・とをりてもとぶらはせ給うべし、迦葉の入定もことにこそ・よれ、いかにと・なりぬるぞ・いぶかしとも申すばかりなし、後五百歳のあたらざるか広宣流布の妄語となるべきか日蓮が法華経の行者ならざるか、法華経を教内と下して別伝と称する大妄語の者をまほり給うべきか、捨閉閣抛と定めて法華経の門をとぢよ巻をなげすてよと・ゑりつけて法華堂を失える者を守護し給うべきか、仏前の誓いはありしかども濁世の・大難のはげしさ・をみて諸天下り給わざるか、日月・天にまします須弥山いまも・くづれず海潮も増減す四季も・かたのごとく・たがはず・いかに・なりぬるやらんと大疑いよいよ・つもり候

又諸大菩薩天人等のごときは爾前の経経にして記莂を・うるやうなれども水中の月を取らんと・するがごとく影を体とおもうがごとく・いろかたち・のみあつて実義もなし、又仏の御恩も深くて深からず、世尊初成道の時はいまだ説教もなかりしに法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩・十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給いて賢首菩薩・解脱月等の菩薩の請にをもむいて十住・十行・十回向・十地等の法門を説き給いき、此等の大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず、十方世界の諸の梵天等も来つて法をとく又釈尊に・ならいたてまつらず、総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん・十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず、阿含・方等・般若の時・四教を仏の説き給いし時こそ・やうやく御弟子は出来して候へ、此も又・仏の自説なれども正説にはあらず、ゆへ・いかんとなれば方等・般若の別・円・二教は華厳経の別・円・二教


の義趣をいでず、彼の別・円・二教は教主釈尊の別・円・二教にはあらず、法慧等の別円二教なり、此等の大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども仏の御師とも・いゐぬべし、世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円をとけり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此等の菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり、善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり、蔵・通・二教は又・別・円の枝流なり別・円・二教をしる人必ず蔵・通・二教をしるべし、人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天・外道は二天・三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にて・ましませしが苦行・楽行・十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか、されば前四味の間は教主釈尊・法慧菩薩等の御弟子なり、例せば文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし、つねは諸経に不説一字と・とかせ給うも・これなり。

仏・御年・七十二の年・摩竭提国・霊鷲山と申す山にして無量義経を・とかせ給いしに四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年・未顕真実と打消し給うは此なり、此の時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請せんとは申せしか、無量義経にて実義とをぼしき事一言ありしかども・いまだまことなし、譬へば月の出でんとして其の体東山にかくれて光り西山に及べども諸人月体を見ざるがごとし、法華経・方便品の略開三顕一の時・仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う、始の事なればほととぎすの初音をねをびれたる者の一音ききたるが・やうに月の山の半を出でたれども薄雲の・をほへるが・ごとく・かそかなりしを舎利弗等・驚いて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして諸天・竜神等・其の数恒沙の如し仏を求むる諸の菩薩大数八万有り・又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す等とは請ぜしなり、文の心は四味・三教・四十余年の間い


まだ・きかざる法門うけ給はらんと請ぜしなり、此の文に具足の道を聞かんと欲すと申すは大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云、無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法に六を以て具足の義と為すなり」等云云、吉蔵の疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」等云云、天台の玄義の八に云く「薩とは梵語此に妙と翻ずるなり」等云云、付法蔵の第十三真言・華厳・諸宗の元祖・本地は法雲自在王如来・迹に竜猛菩薩・初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云く「薩とは六なり」等云云、妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す、善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「曩謨三曼陀没駄南帰命普仏陀三身如来阿阿暗悪開示悟入薩縛勃陀一切仏枳攘娑乞蒭毘耶誐誐曩三娑縛如虚空性羅乞叉儞離塵相也薩哩達磨正法浮陀哩迦白蓮華蘇駄覧歓喜縛曰羅堅固羅乞叉𤚥擁護空無相無願娑婆訶決定成就」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり、此の真言の中に薩哩達磨と申すは正法なり薩と申すは正なり正は妙なり妙は正なり正法華・妙法華是なり、又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり、妙とは具足・六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するやうを・きかんとをもう、具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり、此の経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一に皆妙の一字を備えて三十二相・八十種好の仏陀なり、十界に皆己界の仏界を顕す妙楽云く「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云、仏此れを答えて云く、「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」等云云、衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界・衆生無辺誓願度・此に満足す、「我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す我が昔の願せし所の如き今は已に満足しぬ」等云云。

諸大菩薩・諸天等・此の法門をきひて領解して云く「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつれども未だ曾て是の如き深妙の上法を聞かず」等云云、伝教大師云く「我等昔より来数世尊の説を聞く・と謂うは昔法華経の