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日蓮大聖人・池田大作

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種種御振舞御書  (14/17) 大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を或は天に吹…
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のあまりに金三十両むまやうやうの御ひきで物ありと・きこふ、鎌倉中の上下・万人・手をたたき口をすくめてわらうやうは日蓮ひが法門申して・すでに頸をきられんとせしが・とかうしてゆりたらば・さではなくして念仏・禅をそしるのみならず、真言の密教なんどをも・そしるゆへに・かかる法のしるしめでたしと・ののしりしかば、日蓮が弟子等けうさめて・これは御あら義と申せし程に・日蓮が申すやうはしばしまて弘法大師の悪義まことにて国の御いのりとなるべくば隠岐法皇こそ・いくさにかち給はめ、をむろ最愛の児せいたかも頸をきられざるらん、弘法の法華経を華厳経にをとれりとかける状は十住心論と申す文にあり、寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は秘蔵宝鑰に候、天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり、一乗法華経をとける仏をば真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は正覚房が舎利講の式にあり、かかる僻事を申す人の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば竜王は法華経のかたきなり、梵釈・四王にせめられなん子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく・いかなる子細のあるべきぞとをこつきし程に、日蓮云く善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども大風吹きてありけるとみゆ、弘法は三七日すぎて雨をふらしたり、此等は雨ふらさぬがごとし、三七・二十一日にふらぬ雨やあるべき設いふりたりとも・なんの不思議かあるべき、天台のごとく千観なんどのごとく一座なんど・こそたうとけれ、此れは一定やうあるべしと・いゐもあはせず大風吹来る、大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を或は天に吹きのぼせ或は地に吹き入れ、そらには大なる光り物とび地には棟梁みだれたり、人人をも・ふきころし牛馬ををくたふれぬ、悪風なれども秋は時なれば・なをゆるすかたもあり此れは夏四月なり、其の上日本国にはふかず但関東・八箇国なり八箇国にも武蔵・相模の両国なり両国の中には相州につよくふく、相州にも・かまくら・かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり、ただ事ともみへず・ひとへにこのいのりの・ゆへにやと・おぼへて・わらひ口すくめせし人人も・けうさめてありし上我が弟子どももあら不思議やと舌をふるう。


本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る、同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道・大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よせくるならば・いかにも此の国よはよはと見ゆるなり、仁王経には「聖人去る時は七難必ず起る」等云云、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云、仏説まことならば此の国に一定悪人のあるを国主たつとませ給いて善人をあだませ給うにや、大集経に云く「日月明を現ぜず四方皆亢旱す是くの如く不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊せん」云云、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く、其の王別えずして此の語を信聴せん是を破仏法破国の因縁と為す」等云云、法華経に云く「濁世の悪比丘」等云云、経文まことならば此の国に一定・悪比丘のあるなり、夫れ宝山には曲林をきる大海には死骸をとどめず、仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども誹謗の死骸と一闡提の曲林をば・をさめざるなり、されば仏法を習わん人・後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。

皆人をぼするやうは・いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用うべきと、他人は・さてをきぬ安房の国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり、眼前の現証ありいのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし、此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし、これらはさてをきぬ、円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間一日一夜に二部づつよまれしぞかし、かれをば皆人は仏になるべしと云云、日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申したりしが此の人人の御臨終はよく候いけるか・いかに、日蓮なくば此の人人をば仏になりぬ


らんとこそおぼすべけれ、これをもつて・しろしめせ弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず末の代は・いよいよ・あをぐなり、あらはす人なくば未来永劫までも・さであるべし、拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。

夫れ人身をうくる事は五戒の力による、五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上同生同名と申して二つの天生れしよりこのかた左右のかたに守護するゆへに失なくて鬼神あだむことなし、しかるに此の国の無量の諸人なげきを・なすのみならず、ゆきつしまの両国の人・皆事にあひぬ太宰府又申すばかりなし、此の国はいかなるとがのあるやらん・しらまほほしき事なり、一人・二人こそ失も・あるらめ・そこばくの人人いかん、これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師・善導・法然が末の弟子等・達磨等の人人の末の者ども国中に充満せり、故に梵釈・四天等の法華経の座の誓状のごとく頭破作七分の失にあてらるるなり。

疑つて云く法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に・日蓮房をそしれども頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは道理なりとをぼへ候はいかん、答えて云く日蓮を法華経の行者にてなしと申さば法華経をなげすてよとかける法然等・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか、又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ刀をもてきるやうにわるるとしれるか、経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ、人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ三滴を食へば寿絶えんとす七滴皆食えば死するなり、今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり、例せばてをおいたる人の或は酒にゑい或はねいりぬれば・をぼえざるが如し、又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、死ぬる時は・わるる事もあり、今の世の人人は去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり、其の頭のわれし時せひせひやみ・五臓の損ぜし時あかき