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日蓮大聖人・池田大作

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寂日房御書  (2/2) 日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし
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覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。

日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわいちやうりやうまさかどすみともといはれたる者は名を・をしむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ、獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。

此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上・今日は我が身の上なり、花さけばこのみなり・よめのしうとめになる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、度度の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

  九月十六日                     日蓮花押


新尼御前御返事

                   文永十二年二月 五十四歳御作

あまのり一ふくろ送り給び畢んぬ、又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の嶽と申す駿河の国は南にあたりたり彼の国の浮島がはらの海ぎはより此の甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺へは百余里に及ぶ、余の道・千里よりもわづらはし、富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高山なり谷深く左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり、河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし、此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所をすぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺なり、高き屏風を四ついたてたるがごとし、峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音・山に充満し猨猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の菓は冬になる、たまたま見るものは・やまかつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、彼の商山の四皓が世を脱れし心ち竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、峯に上つて・わかめやをいたると見候へば・さにてはなくして・わらびのみ並び立ちたり、谷に下つてあまのりや・をいたると尋ぬれば、あやまりてや・みるらん・せりのみしげり・ふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候いてよしなき心をもひいでて・うくつらし、かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし。

此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は


此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしをかせ給はず、西域慈恩伝・伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊・皆しるし尽して渡す、又漢土より日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、寺寺の御本尊皆かんがへ尽し・日本国最初の寺・元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊は・あへてましまさず。

人疑つて云く経論になきか・なければこそ・そこばくの賢者等は画像にかき奉り木像にも・つくりたてまつらざるらめと云云、而れども経文は眼前なり御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ、前代につくりかかぬを難ぜんと・をもうは僻案なり、例せば釈迦仏は悲母・孝養のために忉利天に隠れさせ給いたりしをば一閻浮提の一切の諸人しる事なし、但目蓮尊者・一人此れをしれり此れ又仏の御力なりと云云、仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり、例せば大海の潮の時に随つて増減し上天の月の上下にみちかくるがごとし。

今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが、金色世界の文殊師利・兜史多天宮の弥勒菩薩・補陀落山の観世音・日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我もと望み給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とは・ひびけども・いまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗