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日蓮大聖人・池田大作

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右衛門太夫殿御返事 
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右衛門太夫殿御返事

抑久しく申し承らず候の処に御文到来候い畢んぬ、殊にあをきうらの小袖一・ぼうし一・をび一すぢ・鵞目一貫文・くり一籠たしかにうけとり・まいらせ候、当今は末法の始の五百年に当りて候、かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし経文分明なり、又流罪死罪に行わるべきよし明かなり、日蓮は上行菩薩の御使にも似たり此の法門を弘むる故に、神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云、此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり、経に云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云云、貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。

  弘安二年己卯十二月三日               日蓮花押

   右衛門太夫殿御返事


大夫志殿御返事

                    弘安三年 五十九歳御作

小袖一つ直垂三具・同じく腰三具等云云、小袖は七貫・直垂並びに腰は十貫・已上十七貫文に当れり、夫れ以れば天台大師の御位を章安大師顕して云く「止観の第一に序文を引いて云く安禅として化す、位五品に居したまえり、故に経に云く四百万億那由佗の国の人に施すに一一に皆七宝を与え又化して六通を得しむるすら初随喜の人に如ざること百千万倍せり況や五品をや、文に云く即如来の使なり如来の所遣として如来の事を行ず」等云云、伝教大師天台大師を釈して云く「今吾が天台大師は法華経を説き法華経を釈し群に特秀し唐に独歩す」云云、又云く「明かに知んぬ如来の使なり讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」と云云、是の如きは且らく之を置く、滅後一日より正像二千余年の間・仏の御使二十四人なり、所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は末田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者、此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す、但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず、三論宗の云く「道朗吉蔵は仏の使なり」法相宗の云く「玄奘慈恩は仏の使なり」華厳宗の云く「法蔵・澄観は仏の使なり」真言宗の云く「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使なり」

日蓮之を勘えて云く全く仏の使に非ず全く大小乗の使にも非ず、之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん、問う汝の自義か答えて云く設い自義為りと雖も有文有義ならば何の科あらん、然りと雖も釈有り伝教大師云


く「誰か福を捨て罪を慕う者あらんや」云云、福を捨てるとは天台大師を捨てる人なり、罪を慕うとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり、彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし、三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す、此の三千大千世界を一にして四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍なり、天台大師此れに勝れたる事五倍なり、かかる人を供養すれば福を須弥山につみ給うなりと伝教大師ことはらせ給ひて候、此の由を女房には申させ給へ、恐恐謹言。

   大夫志殿御返事                  花押

兵衛志殿御返事

青鳧五貫文送り給び了んぬ、唱え奉る南無妙法蓮華経一返の事、恐恐。

  六月十八日                     日蓮花押

   兵衛志殿御返事