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日蓮大聖人・池田大作

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諫暁八幡抄  (12/13) 一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申す…
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日経えすかし入れ、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論なんどかかれて候大科を明らめずして此の四百余年一切衆生を皆謗法の者となせり、例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗の人を皆無間地獄に堕せると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻大城に導きしと、今の三大師の教化に随いて日本国四十九億九万四千八百二十八人或は云く日本紀に行基の人数に云く男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生又四十九億等の人人四百余年に死して無間地獄に堕ちぬれば其の後他方世界よりは生れて又死して無間地獄に堕ちぬ、かくのごとく堕つる者は大地微塵よりも多し此れ皆三大師の科ぞかし、此れを日蓮此に大に見ながらいつわりをろかにして申さずば倶に堕地獄の者となつて一分の科なき身が十方の大阿鼻獄を経めぐるべしいかでか身命をすててよばわらざるべき涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし

平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり」等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願破るるがごとし、日蓮料簡して云く百王を守護せんというは正直の王・百人を守護せんと誓い給う、八幡の御誓願に云く「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず」等云云、夫れ月は清水に影をやどす濁水にすむ事なし、王と申すは不妄語の人・右大将家・権の大夫殿は不妄語の人・正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内なり、正直に二あり一には世間の正直・王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつてんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す、隠岐の法皇は名は国王・身は妄語の人なり横人なり、権の大夫殿は名は臣下・身は大王・不妄語の人・八幡大菩薩の願い給う頂きなり、二には出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論釈は妄語・法華経・天台宗は正直の経釈なり、本地は不妄語の経の釈迦


仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、四月八日・寅の日に生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。

法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。

天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月


は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。

 弘安三年太歳庚辰十二月 日日蓮花押

二乗作仏事

爾前得道の旨たる文、経に云く見諸菩薩等云云、又云く始見我身等、此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事有ると見えたるなり、故に見諸菩薩の文の下には而我等不預斯事と・又始見の文の下には除先修習等云云、此れは爾前に二乗作仏無しと見たる文なり。

問う顕露定教には二乗作仏を許すや顕露不定教には之を許すか秘密には之を許すか爾前の円には二乗作仏を許すや別教には之を許すか、答う所詮は重重の問答有りと雖も皆之を許さざるなり、所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり、釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許りなり、所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず又凡夫二乗は勿論なり化一切衆生皆令入仏道の文の下にて此の事は意得可きなり。

問う円の菩薩に向つては二乗作仏を説くか、答う説かざるなり未曾向人説如此事の釈に明かなり。

問う華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや、答う次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除き