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日蓮大聖人・池田大作

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日妙聖人御書  (1/5) 今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさ…
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土籠御書

                    文永八年十月 五十歳御作

                    与 日朗    於相模依智

日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ、あはれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば・父母・六親・一切衆生をも・たすけ給うべき御身なり、法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ、天諸童子・以為給使・刀杖不加毒不能害と説かれて候へば別の事はあるべからず、籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん、恐恐謹言。

  文永八年辛未十月九日                日蓮花押

   筑後殿

日妙聖人御書

                    文永九年五月 五十一歳御作

過去に楽法梵志と申す者ありき、十二年の間・多くの国をめぐりて如来の教法を求む、時に総て仏法僧の三宝一つもなし、此の梵志の意は渇して水をもとめ飢えて食をもとむるがごとく仏法を尋ね給いき、時に婆羅門あり求めて云く我れ聖教を一偈持てり若し実に仏法を願はば当にあたふべし、梵志答えて云くしかなり、婆羅門の云く実に志あらば皮をはいで紙とし・骨をくだいて筆とし・髄をくだいて墨とし・血をいだして水として書かんと云


はば仏の偈を説かん、時に此の梵志悦びをなして彼が申すごとくして皮をはいでほして紙とし乃至一言をもたがへず、時に婆羅門・忽然として失ぬ、此の梵志・天にあふぎ・地にふす、仏陀此れを感じて下方より涌出て・説て云く「如法は応に修行すべし非法は行ずべからず今世若しは後世・法を行ずる者は安穏なり」等云云、此の梵志・須臾に仏になる・此れは二十字なり、昔釈迦菩薩・転輪王たりし時き「夫生輙死此滅為楽」の八字を尊び給う故に身をかへて千燈にともして此の八字を供養し給い人をすすめて石壁・要路に・かきつけて見る人をして菩提心をおこさしむ、此の光明・忉利天に至る天の帝釈並びに諸天の燈となり給いき。

昔釈迦菩薩・仏法を求め給いき、癩人あり此の人にむかつて我れ正法を持てり其の字二十なり我が癩病をさすりいだきねぶり日に両三斤の肉をあたへば説くべしと云う、彼が申すごとくして二十字を得て仏になり給う、所謂「如来は涅槃を証し永く生死を断じ給う、若し至心に聴くこと有らば当に無量の楽を得べし」等云云。

昔雪山童子と申す人ありき、雪山と申す山にして外道の法を通達せしかども・いまだ仏法をきかず、時に大鬼神ありき説いて云く「諸行無常是生滅法」等云云、只八字計りを説いて後をとかず時に雪山童子・此の八字を得て悦きはまりなけれども半なる如意珠を得たるがごとく華さき菓ならざるに・にたり、残の八字を・きかんと申す、時に大鬼神の云く我れ数日が間・飢えて正念乱るゆへに後の八字を・ときがたし食をあたへよと云う、童子問うて云く何をか食とする、鬼答えて云く我は人のあたたかなる血肉なり、我れ飛行自在にして須臾の間に四天下を回つて尋ぬれどもあたたかなる血肉得がたし、人をば天守り給う故に失なければ殺害する事かたし等云云、童子の云く我が身を布施として彼の八字を習い伝えんと云云、鬼神の云く智慧甚だ賢し我をや・すかさんずらん、童子答えて云く瓦礫に金銀をかへんに是をかえざるべしや我れ徒に此の山にして・死しなば鴟梟虎狼に食はれて一分の功徳なかるべし、後の八字にかえなば糞を飯にかふるがごとし、鬼の云く我いまだ信ぜず、童子の云く証人


あり過去の仏も・たて給いし大梵天王・釈提桓因・日月・四天も証人にたち給うべし、此の鬼神後の偈をとかんと申す、童子身にきたる鹿の皮を・ぬいで座にしき踞跪合掌して此の座につき給へと請す、大鬼神・此の座について説て云く「生滅滅已・寂滅為楽」等云云、此の偈を習ひ学して若しは木・若しは石等に書き付けて身を大鬼神の口になげいれ給う、彼の童子は今の釈尊・彼の鬼神は今の帝釈なり。

薬王菩薩は・法華経の御前に臂を七万二千歳が間ともし給い、不軽菩薩は多年が間・二十四字の故に無量無辺の四衆に罵詈・毀辱・杖木・瓦石・而打擲之せられ給いき、所謂二十四字と申すは「我深く汝等を敬う敢て軽慢せず所以は何ん汝等皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」等云云、かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり、昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に千歳が間・阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせて給いて今の釈尊となり給う。

然るに妙法蓮華経は八巻なり・八巻を読めば十六巻を読むなるべし、釈迦・多宝の二仏の経なる故へ、十六巻は無量無辺の巻軸なり、十方の諸仏の証明ある故に一字は二字なり釈迦・多宝の二仏の字なる故へ・一字は無量の字なり十方の諸仏の証明の御経なる故に、譬えば如意宝珠の玉は一珠なれども二珠乃至無量珠の財をふらすこと・これをなじ、法華経の文字は一字は一の宝・無量の字は無量の宝珠なり、妙の一字には二つの舌まします釈迦・多宝の御舌なり、此の二仏の御舌は八葉の蓮華なり、此の重なる蓮華の上に宝珠あり妙の一字なり。

此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜と申して身をうえたる虎にかひし功徳・鳩にかひし功徳、尸羅波羅蜜と申して須陀摩王として・そらことせざりし功徳等、忍辱仙人として・歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子・尚闍梨仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給いて末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給う、今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子これなり、我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の