Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (4/43) 十界同時の成仏なり
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一体なり、記の三の釈に約法約機・皆護念故と云うは此の意なり、又文句の三に云く「仏所護念とは前の地動瑞を決定するなり地動は六番破惑を表するなり、妙法蓮華経を受持する者は六番破惑疑い無きなり」神力品に云く「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑」仏自住大乗とは是なり、又た一義に仏の衆生を護念したもう事は護とは唯我一人能為救護・念とは毎自作是念是なり、普賢品に至つて一者為諸仏護念と説くなり、日蓮は生年卅二より南無妙法蓮華経を護念するなり。

第五 下至阿鼻地獄の事

御義口伝に云く十界皆成の文なり提婆が成仏此の文にて分明なり、宝塔品の次に提婆が成仏を説く事は二箇の諫暁の分なり、提婆は此の文の時成仏せり此の至の字は白毫の行く事なり白毫の光明は南無妙法蓮華経なり、上至阿迦尼咜天は空諦・下至阿鼻地獄は仮諦・白毫の光は中道なり、之に依つて十界同時の成仏なり天王仏とは宝号を送るまでなり、去て依正二報の成仏の時は此の品の下至阿鼻地獄の文は依報の成仏を説き提婆達多の天王如来は正報の成仏を説く依報正報共に妙法の成仏なり、今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり、法華不信の人は堕在無間なれども、題目の光を以て孝子法華の行者として訪わんに豈此の義に替わる可しや、されば下至阿鼻地獄の文は仏・光を放ちて提婆を成仏せしめんが為なりと日蓮推知し奉るなり。

第六 導師何故の事

疏に云く良に以みれば説法入定して能く人を導く既に導師と称す。

御義口伝に云く此の導師は釈尊の御事なり、説法とは無量義経・入定とは無量義処三昧に入りたもう事なり、所詮導師に於て二あり悪の導師善の導師之れ有るなり、悪の導師とは法然・弘法・慈覚・智証等なり善の導師とは天台・伝教等是なり、末法に入つては今日蓮等の類いは善の導師なり、説法とは南無妙法蓮華経・入定とは法


華受持の決定心に入る事なり能導於人の能の字に心を留めて之を案ず可し涌出品の唱導之師と同じ事なり、所詮日本国の一切衆生を導かんが為に説法する人是なり云云。

第七 天鼓自然鳴の事

疏に云く天鼓自然鳴は無問自説を表するなり。

御義口伝に云く此の文は此土・他土の瑞同じきことを頌して長出せり、無問自説とは釈迦如来・妙法蓮華経を無問自説し給うなり、今日蓮等の類いは無問自説なり念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚ぶ事は無問自説なり三類の強敵来る事は此の故なり、天鼓とは南無妙法蓮華経なり自然とは無障碍なり鳴とは唱うる所の音声なり、一義に一切衆生の語言音声を自在に出すは無問自説なり自説とは獄卒の罪人を呵責する音・餓鬼飢饉の音声等・一切衆生の貪瞋癡の三毒の念念等を自説とは云うなり此の音声の体とは南無妙法蓮華経なり、本迹両門妙法蓮華経の五字は天鼓なり天とは第一義天なり自説とは自受用の説法なり、記の三に云く無問自説を表するとは方便の初に三昧より起つて舎利弗に告げ広く歎じ略して歎ず、此土他土言に寄せ言を絶す若は境若は智此乃ち一経の根本五時の要津なり此の事軽からずと、此釈に一経の根源五字の要津とは南無妙法蓮華経是なり云云。

       方便品八箇の大事

第一 方便品の事

文句の三に云く方とは秘なり便とは妙なり妙に方に達するに即ち是真の秘なり、内衣裏の無価の珠を点ずるに王の頂上の唯一珠有ると二無く別無し、客作の人を指すに是長者の子にして亦二無く別無し、此の如きの言は是秘是妙なり、経の唯我知是相・十方仏亦然・止止不須説・我法妙難思の如し故に秘を以て方を釈し妙を以て便を釈す正しく是れ今の品の意なり故に方便品と言うなり記の三に云く第三に秘妙に約して


釈するとは妙を以ての故に即なり円を以て即と為し三を不即と為す故に更に不即に対して以て即を釈す。

御義口伝に云く此の釈の中に一珠とは衣裏珠・即頂上珠なり、客作の人と長者の子と全く不同之無し、所詮謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なり爰を以て無二無別に非るなり、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり故に妙法蓮華経と題して次に方便品と云えり、妙楽の記の三の釈に本疏の即是真秘の即を以円為即と消釈せり、即は円なれば法華経の別名なり即とは凡夫即極・諸法実相の仏なり、円とは一念三千なり即と円と言は替れども妙の別名なり、一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う、又云く法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し、大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり今末法に入つて正しく日蓮等の類の事なり、妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るを妙法蓮華経方便品とは云うなり、是を即身成仏とも如是本末究竟等とも説く、又方便とは十界の事なり又は無明なり妙法蓮華経は十界の頂上なり又は法性なり煩悩即菩提生死即涅槃是なり、以円為即とは一念三千なり妙と即とは同じ物なり一字の一念三千と云う事は円と妙とを云うなり円とは諸法実相なり、円とは釈に云く円を円融円満に名くと円融は迹門円満は本門なり又は止観の二法なり又は我等が色心の二法なり一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり、囗は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり云云。

第二 諸仏智慧甚深無量其智慧門の事

文句の三に云く先ず実を歎じ次に権を歎ず、実とは諸仏の智慧なり三種の化他の権実に非ず故に諸仏と云う自行の実を顕す故に智慧と言う、此の智慧の体即ち一心の三智なり、甚深