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日蓮大聖人・池田大作

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如来滅後五五百歳始観心本尊抄  (11/17) 此の仏像
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る故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。

問う正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏・小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由之を申す、此の事粗之を聞くと雖も前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す請う重ねて之を説け委細に之を聞かん。

答えて曰く法華経一部八巻二十八品・進んでは前四味・退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり、正宗十巻の中に於て亦序正流通有り無量義経並に序品は序分なり、方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまで十五品半は正宗分なり、分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。

又法華経等の十巻に於ても二経有り各序正流通を具するなり、無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意・難信難解の正法なり、過去の結縁を尋れば大通十六の時仏果の下種を下し進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発等の一分なり、二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し或は普賢・涅槃等に至り或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る例せば在世の前四味の者の如し。


又本門十四品の一経に序正流通有り涌出品の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す其の余は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず所説の法門も亦天地の如し十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜を隔つ、又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり。

又本門に於て序正流通有り過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経経は皆寿量の序分なり一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く、其の機を論ずれば徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり、爾前迹門の円教尚仏因に非ず何に況や大日経等の諸小乗経をや何に況や華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや、与えて之を論ずれば前三教を出でず奪つて之を云えば蔵通に同ず、設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり、譬えば王女たりと雖も畜種を懐妊すれば其の子尚旃陀羅に劣れるが如し、此等は且く之を閣く迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す、問うて曰く其の証如何ん、答えて曰く法師品に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」宝塔品に云く「法をして久住せしむ乃至来れる所の化仏当に此の意を知るべし」等、勧持安楽等之を見る可し迹門是くの如し、本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。

問うて曰く其の証文如何、答えて云く涌出品に云く「爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙


の数に過ぎたる大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して仏に白して言さく、世尊若し我等に仏の滅後に於て娑婆世界に在つて勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴し給わば当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし、爾の時に仏・諸の菩薩摩訶薩衆に告げ給わく止ね善男子・汝等が此の経を護持せんことを須いじ」等云云、法師より已下五品の経文前後水火なり、宝塔品の末に云く「大音声を以て普く四衆に告ぐ誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かんものなる」等云云、設い教主一仏為りと雖も之を奨勧し給わば薬王等の大菩薩・梵帝・日月・四天等は之を重んず可き処に多宝仏・十方の諸仏客仏と為て之を諫暁し給う、諸の菩薩等は此の慇懃の付属を聞いて「我不愛身命」の誓言を立つ、此等は偏に仏意に叶わんが為なり、而るに須臾の間に仏語相違して過八恒沙の此の土の弘経を制止し給う進退惟れ谷まり凡智に及ばず、天台智者大師前三後三の六釈を作つて之を会し給えり、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」妙楽云く「子父の法を弘む世界の益有り」、輔正記に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云。

又弥勒菩薩疑請して云く経に云く「我等は復た仏の随宜の所説・仏所出の言未だ曾て虚妄ならず・仏の所知は皆悉く通達し給えりと信ずと雖も然も諸の新発意の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を聞かば或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん、唯然り世尊・願くは為に解説して我等が疑を除き給え及び未来世の諸の善男子此の事を聞き已つて亦疑を生ぜじ」等云云、文の意は寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり、寿量品に云く「或は本心を失える或は失わざる者あり乃至心を失わざる者は此の良薬の色香倶に好きを見て即便之を服するに