Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

下山御消息  (14/22) 外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定…
356

愛身命但惜無上道と誓へり、加刀杖瓦石数数見擯出の文に任せて流罪せられ刀のさきにかかりなば法華経一部よみまいらせたるにこそとおもひきりてわざと不軽菩薩の如く覚徳比丘の様に竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者の如く弥強盛に申しはる、今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く散散に責るならば定めて万人もいかり国主も讒言を収て流罪し頸にも及ばんずらん、其時仏前にして誓状せし梵釈・日月・四天の願をもはたさせたてまつり法華経の行者をあだまんものを須臾ものがさじと起請せしを身にあてて心みん、釈尊・多宝・十方分身の諸仏の或は共に宿し或は衣を覆はれ或は守護せんとねんごろに説かせ給いしをも実か虚言かと知つて信心をも増長せんと退転なくはげみし程に案にたがはず去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ余又兼て此の事を推せし故に弟子に向つて云く我が願既に遂ぬ悦び身に余れり人身は受けがたくして破れやすし、過去遠遠劫より由なき事には失いしかども法華経のために命をすてたる事はなし、我頸を刎られて師子尊者が絶えたる跡を継ぎ天台伝教の功にも超へ付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人となり不軽菩薩の行にも越えて釈迦・多宝・十方の諸仏にいかがせんとなげかせまいらせんと思いし故に言をもおしまず已前にありし事・後に有るべき事の様を平の金吾に申し含めぬ此の語しげければ委細にはかかず。

抑も日本国の主となりて万事を心に任せ給へり何事も両方を召し合せてこそ勝負を決し御成敗をなす人のいかなれば日蓮一人に限つて諸僧等に召合せずして大科に行わるるらん是れ偏にただ事にあらずたとひ日蓮は大科の者なりとも国は安穏なるべからず、御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに起請文を書載せたり、第一・第二は神事・仏事・乃至五十一等云云、神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を讒人等に召合せられずして彼等が申すままに頸に及ぶ然れば他事の中にも此の起請文に相違する政道は有るらめども此れは第一の大事なり、日


蓮がにくさに国をかへ身を失はんとせらるるか魯の哀公が忘事の第一なる事を記せらるるには移宅に妻をわすると云云、孔子の云く身をわするる者あり国主と成りて政道を曲ぐるなり是云云、将又国主は此の事を委細には知らせ給はざるか、いかに知らせ給はずとのべらるるとも法華経の大怨敵と成給いぬる重科は脱るべしや、多宝・十方の諸仏の御前にして教主釈尊の申す口として末代当世の事を説かせ給いしかば諸の菩薩記して云く「悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん、乃至数数擯出せられん」等云云、又四仏釈尊の所説の最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、乃至他方の怨賊来つて国人喪乱に遭わん」等云云、たとい日蓮をば軽賤せさせ給うとも教主釈尊の金言・多宝・十方の諸仏の証明は空かるべからず一切の真言師・禅宗・念仏者等の謗法の悪比丘をば前より御帰依ありしかども其の大科を知らせ給はねば少し天も許し善神もすてざりけるにや、而るを日蓮が出現して一切の人を恐れず身命を捨てて指し申さば賢なる国主ならば子細を聞き給うべきに聞きもせず用いられざるだにも不思議なるに剰へ頸に及ばむとせし事は存外の次第なり、然れば大悪人を用いる大科・正法の大善人を耻辱する大罪・二悪・鼻を並べて此の国に出現せり、譬ば修羅を恭敬し日天を射奉るが如し故に前代未聞の大事・此の国に起るなり、是又先例なきにあらず夏の桀王は竜蓬が頭を刎ね殷の紂王は比干が胸をさき二世王は李斯を殺し優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如し檀弥羅王は師子尊者の頸をきる武王は慧遠法師と諍論し憲宗王は白居易を遠流し徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印をさす、此等は皆諫暁を用いざるのみならず還つて怨を成せし人人現世には国を亡し身を失ひ後生には悪道に堕つ是れ又人をあなづり讒言を納れて理を尽さざりし故なり、而るに去る文永十一年二月に佐土の国より召返されて同四月の八日に平金吾に対面して有りし時理不尽の御勘気の由委細に申し含めぬ、又恨むらくは此の国すでに他国に破れん事のあさましさよと歎き申せしかば金吾が云く何の比か大蒙古は寄せ候べきと問いしかば経文には分明に年月を指したる事はなけれども天の御気色を拝見し奉るに以ての外に此


の国を睨みさせ給うか今年は一定寄せぬと覚ふ若し寄するならば一人も面を向う者あるべからず此れ又天の責なり、日蓮をばわどのばらが用いぬ者なれば力及ばず、穴賢穴賢・真言師等に調伏行わせ給うべからず若し行わするほどならいよいよ悪かるべき由申付けてさて帰りてありしに上下共に先の如く用いさりげに有る上本より存知せり国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ、其の上は国主の用い給はざらんに其れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたすかるまじ人も又仏になるべしともおぼへず。

又念仏無間地獄・阿弥陀経を読むべからずと申す事も私の言にはあらず、夫れ弥陀念仏と申すは源と釈迦如来の五十余年の説法の内・前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり、然れども如来の金言なれば定めて真実にてこそ・あるらめと信ずる処に後八年の法華経の序分たる無量義経に仏・法華経を説かせ給はんために先づ四十余年の経経・並に年紀等を具に数へあげて未顕真実・乃至終不得成・無上菩提と若干の経経並に法門を唯一言に打ち消し給う事譬えば大水の小火をけし大風の衆の草木の露を落すが如し、然後に正宗の法華経の第一巻に至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し、然後実義を定めて云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す、復教詔すと雖も而も信受せず、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賤憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、経文の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に此れはさにては候はず在世滅後の一切衆生・阿弥陀経等の四十余年の経経を堅く執して法華経へうつらざらんとたとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と又自執の経経を法華経に勝れたりといはん人と法華経を