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日蓮大聖人・池田大作

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頼基陳状  (6/10) 或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎…
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らば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば一向に法華経になるべしと・いはれしかば是等悦びて極楽寺の良観房に此の由を申し候けり、良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる日蓮御勘気を蒙る時・此の事御尋ね有りしかば有りのままに申し給いき、然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にも・まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき・又頼基も見聞き候き、他事に於ては・かけはくも主君の御事畏れ入り候へども此の事はいかに思い候とも・いかでかと思は


れ候べき。

仰せ下しの状に云く竜象房・極楽寺の長老見参の後は釈迦・弥陀とあをぎ奉ると云云、此の条又恐れ入り候、彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪鬼・国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に自然に逃失し行方を知らざる処にたまたま鎌倉の中に又人の肉を食の間・情ある人恐怖せしめて候に仏菩薩と仰せ給う事所従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき、御内のをとなしき人人いかにこそ存じ候へ。

同じき下し状に云く是非につけて主親の所存には相随わんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本と云云、此の事最第一の大事にて候へば私の申し状恐れ入り候間・本文を引くべく候、孝経に云く「子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず」、鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諫めざるは則ち亡国破家の道なり」新序に曰く「主の暴を諫めざれば忠臣に非ざるなり、死を畏れて言わざるは勇士に非ざるなり」、伝教大師云く「凡そ不誼に当つては則ち子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず」文、法華経に云く「我れ身命を愛まず但無上道を惜む」文、涅槃経に云く「譬えば王の使の善能談論し方便に巧にして命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り」文、章安大師云く「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」文、又云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親むは則ち是れ彼が怨なり能く糺治する者は彼の為めに悪を除く則ち是れ彼が親なり」文、頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候らめども世の事にをき候ては是非父母主君の仰せに随い参らせ候べし。

其にとて重恩の主の悪法の者に・たぼらかされ・ましまして悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり、阿闍世王は


提婆六師を師として教主釈尊を敵とせしかば摩竭提国・皆仏教の敵となりて闍王の眷属・五十八万人・仏弟子を敵とする中に耆婆大臣計り仏の弟子なり、大王は上の頼基を思し食すが如く仏弟子たる事を御心よからず思し食ししかども最後には六大臣の邪義をすてて耆婆が正法にこそ・つかせ給い候しが・其の如く御最後をば頼基や救い参らせ候はんずらむ此の如く申さしめ候へば阿闍世は五逆罪の者なり彼に対するかと思し食しぬべし、恐れにては候へども彼には百千万倍の重罪にて御座すべしと御経の文には顕然に見えさせ給いて候、所謂「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾子なり」文・文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり師匠なり主君なり阿弥陀仏は此の三の義ましまさず、而るに三徳の仏を閣いて他仏を昼夜朝夕に称名し六万八万の名号を唱えましますあに不孝の御所作にわたらせ給はずや、弥陀の願も釈迦如来の説かせ給いしかども終にくひ返し給いて唯我一人と定め給いぬ、其の後は全く二人三人と見え候はず、随つて人にも父母二人なし何の経に弥陀は此の国の父・何れの論に母たる旨見へて候・観経等の念仏の法門は法華経を説かせ給はむ為の・しばらくの・しつらひなり、塔くまむ為の足代の如し、而るを仏法なれば始終あるべしと思う人・大僻案なり、塔立てて後・足代を貴ぶほどのはかなき者なり、又日よりも星は明と申す者なるべし、此の人を経に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず其の人・命終して阿鼻獄に入らん」、当世・日本国の一切衆生の釈迦仏を抛つて阿弥陀仏を念じ法華経を抛つて観経等を信ずる人或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男・俗女等・存外に五逆七逆・八虐の罪ををかせる者を智者と竭仰する諸の大名僧並びに国主等なり、如是展転至無数劫とは是なり、此くの如き僻事をなまじゐに承りて候間・次を以て申せしめ候、宮仕を・つかまつる者・上下ありと申せども分分に随つて主君を重んぜざるは候はず、上の御ため現世・後生あしくわたらせ給うべき事を秘かにも承りて候はむに傍輩・世に憚りて申し上ざらむは与同罪にこそ候まじきか。