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日蓮大聖人・池田大作

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新池御書  (2/6) 名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやす…
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釈迦仏を直ちに八十億劫が間・無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候、此の経にあひ奉りぬれば悦び身に余り左右の眼に涙浮びて釈尊の御恩報じ尽しがたし、かやうに此の山まで度度の御供養は法華経並に釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候、弥はげませ給うべし懈ることなかれ、皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき、何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。

噫過ぎし方の程なきを以て知んぬ我等が命今幾程もなき事を春の朝に花をながめし時ともなひ遊びし人は花と共に無常の嵐に散りはてて名のみ残りて其の人はなし花は散りぬといへども又こん春も発くべしされども消えにし人は亦いかならん世にか来るべき秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も月と共に有為の雲に入りて後面影ばかり身にそひて物いふことなし月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし然れどもかくれし人は今いづくにか住みぬらんおぼつかなし無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし屠所の羊の今幾日か無常の道を歩まん、雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり、其の上此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入り


かはりて多くの人を導く、仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費・民の歎きにて・いらかを並べたる計りなり、是れ私の言にあらず経文にこれあり習ふべし。

諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず況や人間としてこれをうくべきや、春日大明神の御託宣に云く飯に銅の炎をば食すとも心穢れたる人の物をうけじ、座に銅の焔には坐すとも心汚れたる人の家にはいたらじ、草の廊・萱の軒にはいたるべしと云へり、縦令千日のしめを引くとも不信の所には至らじ、重服深厚の家なりとも有信の所には至るべし云云、是くの如く善神は此の謗法の国をばなげきて天に上らせ給いて候、心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり、此の経の五の巻に見えたり、謗法の供養をば銅焔とこそおほせられたれ、神だにも是くの如し況や我等凡夫としてほむらをば食すべしや、人の子として我が親を殺したらんものの我に物をえさせんに是を取るべきや、いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし。

釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり主なり師なり、此の釈尊を殺したらんに争か諸天・善神等うれしく思食すべき、今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり、在家の俗男・俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊の外の御敵なり、智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、貴僧・高僧には依るべからず、賤き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり、されば伝教大師は無智破戒の男女等も此の経を信ぜん者は小乗二百五十戒の僧の上に座席に居よ末座すべからず況や大乗此の経の僧をやとあそばされたり、今生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房よりも此の経を信じたる男女は座席を高く居ることこそ候へ、彼の二百五十戒の良観房も日蓮に会いぬれば腹をたて眼をいからす是ただごとにはあらず、智者の身に魔の入りかはればなり、譬えば本性よき人なれども酒に酔い


ぬればあしき心出来し人の為にあしきが如し、仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道に堕つべし、彼が心は犬野干の心には劣れりと説き給いて候なり、彼の四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛の如し・三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども・法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり、何に況やそれに劣れる今時の者共をや。

建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし、守護の善神此の国を捨つる事疑あることなし、昔釈尊の御前にして諸天善神・菩薩・声聞・異口同音に誓をたてさせ給いて若し法華経の御敵の国あらば或は六月に霜霰と成りて国を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成りて五穀をはみ失はんと申し、或は旱魃をなさん・或は大水と成りて田園をながさんと申し、或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、或は悪鬼と成りて・なやまさんと面面に申させ給ふ、今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん、起請を破らせ給はば無間地獄は疑なき者なり恐れ給うべし恐れ給うべし、今までは正く仏の御使出世して此の経を弘めず国主もあながちに御敵にはならせ給はず但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。

今某・仏の御使として此の経を弘むるに依りて上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢んぬ、今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねて・おはせども・霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし、天照太神・八幡大菩薩・天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき、縦ひ捨てじと思食すとも霊山のやくそくのままに某呵責し奉らば一日もやはか・おはすべき、譬えば盗人の候に知れぬ時はかしこやここに住み候へども能く案内知りたる者の是こそ盗人とののしり・どめけば・おもはぬ外に栖を去るが如く、某にささへられて社を