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日蓮大聖人・池田大作

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日女御前御返事  (1/2) 法華弘通のはたじるし
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日女御前御返事

                    建治三年八月 五十六歳御作

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ、抑此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年には・いまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、天台妙楽伝教等は内には鑒み給へども故こそあるらめ言には出だし給はず、彼の顔淵が聞きし事・意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し、然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由経文赫赫たり明明たり・天台妙楽等の解釈分明なり。

爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。


経に云く「諸法実相」是なり、妙楽云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云、又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云、伝教大師云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」文、此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり、仏滅後・二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。

かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねぎ後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く・彼こへまはり此へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり、相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし、悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり。

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、されば止観の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、弘決の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘の言尚信を首と為す況や仏法の深理をや信無くして寧ろ入らんや、故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」等、又止の一に云く「何が円の法を聞き円の信を起し円の行を立て円の位に住せん」弘の一に云く「円信と言うは理


に依つて信を起す信を行の本と為す」云云、外典に云く「漢王臣の説を信ぜしかば河上の波忽ちに冰り李広父の讎を思いしかば草中の石羽を飲む」と云えり、所詮・天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり、彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行くぞかし、石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり、何に況や仏法においてをや、法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ、神力品に云く、委くは又又申す可く候、穴賢穴賢。

  建治三年八月二十三日                日蓮花押

   日女御前御返事

日女御前御返事

                    弘安元年六月 五十七歳御作

御布施七貫文送り給び畢んぬ、属累品の御心は仏・虚空に立ち給いて四百万億那由佗の世界にむさしののすすきのごとく・富士山の木のごとく・ぞくぞくとひざをつめよせて・頭を地につけ・身をまげ・掌をあはせ・あせを流し、つゆしげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ、譬えば悲母の一子が頂のかみをなづるがごとし、爾の時に上行乃至・日月等忝き仰せを蒙りて法華経を末代に弘通せんと・ちかひ給いしなり、薬王品と申すは昔喜見菩薩と申せし菩薩・日月浄明徳仏に法華経を習わせ給いて・其の師の恩と申し法華経のたうとさと申しかんにたへかねて万の重宝を尽くさせ給いしかども・なを心ゆかずして身に油をぬりて千二百歳の間・当時の油にとうしみを入れてたく