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日蓮大聖人・池田大作

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衆生身心御書  (6/6) 犬は師子をほゆれば・はらわたくさる
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明文をやぶりたる文なし、随つて善無畏等・玄奘等・弘法・慈覚・智証等・種種のたくみあれども法華経を大日経に対して・やぶりたる経文は・いだし給わず、但印・真言計りの有無をゆへとせるなるべし、数百巻のふみをつくり漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし宣旨を申しそへて人を・をどされんよりは経文分明ならば・たれか疑をなすべき、つゆつもりて河となる・河つもりて大海となる・塵つもりて山となる・山かさなりて須弥山となれり・小事つもりて大事となる・何に況や此の事は最も大事なり、疏をつくられけるにも両方の道理・文証をつくさるべかりけるか、又宣旨も両方を尋ね極めて分明の証文をかきのせて・いましめあるべかりけるか。

已今当の経文は仏すら・やぶりがたし・何に況や論師・人師・国王の威徳をもつて・やぶるべしや、已今当の経文をば梵王・帝釈・日月・四天等・聴聞して各各の宮殿にかきとどめて・をはするなり、まことに已今当の経文を知らぬ人の有る時は・先の人人の邪義は・ひろまりて失なきやうにては・ありとも・此の経文を・つよく立て退転せざるこわ物出来しなば大事出来すべし、いやしみて或はのり・或は打ち・或はながし・或は命をたたんほどに・梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて此の行者のかたうどを・せんほどに・存外に天のせめ来りて民もほろび・国もやぶれんか、法華経の行者はいやしけれども・守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる・犬は師子をほゆれば・はらわたくさる、今予みるに日本国かくのごとし、又此れを供養せん人人は法華経供養の功徳あるべし、伝教大師釈して云く「讚めん者は福を安明に積み謗せん者は罪を無間に開かん」等云云。

ひへのはんを辟支仏に供養せし人は宝明如来となり・つちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり、設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。

其の上当世は世みだれて民の力よわし、いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へまうそう


か・たかんなををくらせ給う福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず。

白米一俵御書

白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいを・もつてわざわざをくられて候。

人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり・経に云く「有情は食に依つて住す」と云云文の心は生ある者は衣と食とによつて世にすむと申す心なり、魚は水にすむ水を宝とす・木は地の上にをいて候・地を財とす、人は食によつて生あり食を財とす、いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり、されば・いのちは・ともしびのごとし・食はあぶらのごとし、あぶらつくれば・ともしびきへぬ・食なければ・いのちたへぬ、一切のかみ・仏をうやまいたてまつる・始の句には南無と申す文字ををき候なり、南無と申すは・いかなる事ぞと申すに・南無と申すは天竺のことばにて候、漢土・日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり、我が身には分に随いて妻子・眷属・所領・金銀等をもてる人人もあり・又財なき人人もあり、財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず、されば・いにしへの聖人・賢人と申すは命を仏にまいらせて・仏にはなり候なり。

いわゆる雪山童子と申せし人は・身を鬼にまかせて八字をならへり、薬王菩薩と申せし人は臂をやいて法華経に奉る、我が朝にも聖徳太子と申せし人は・手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る、此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候。

ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にか


んがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば・ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり、まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。

爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。

此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり。