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日蓮大聖人・池田大作

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一生成仏抄  (1/2) 皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取…
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一生成仏抄

                    建長七年 三十四歳御作

                    与 富木常忍

夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。

都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、之に依つて浄名経の中には諸仏の解


脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。

抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり、然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん」とのべたり、努努不審をなすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

                            日蓮花押


主師親御書

                     建長七年 三十四歳御作

釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり一人してすくひ護ると説き給へり、阿弥陀仏は我等が為には主ならず親ならず師ならず、然れば天台大師是を釈して曰く「西方は仏別にして縁異なり仏別なるが故に隠顕の義成ぜず縁異なるが故に子父の義成ぜず、又此の経の首末に全く此の旨無し眼を閉じて穿鑿せよ」と実なるかな釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として十九の御年・家を出で給いて檀特山と申す山に籠らせ給ひ、高峯に登つては妻木をとり深谷に下つては水を結び難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給いて一代聖教を説き給いしに、上には華厳・阿含・方等・般若等の種種の経経を説かせ給へども内心には法華経を説かばやと・おぼしめされしかども衆生の機根まちまちにして一種ならざる間仏の御心をば説き給はで人の心に随ひ万の経を説き給へり、此くの如く四十二年が程は心苦しく思食しかども今法華経に至つて我が願既に満足しぬ我が如くに衆生を仏になさんと説き給へり、久遠より已来或は鹿となり或は熊となり或時は鬼神の為に食われ給へり、此くの如き功徳をば法華経を信じたらん衆生は是れ真仏子とて是実の我が子なり此の功徳を此の人に与へんと説き給へり、是れ程に思食したる親の釈迦仏をば・ないがしろに思ひなして唯以一大事と説き給へる法華経を信ぜざらん人は争か仏になるべきや能く能く心を留めて案ずべし。

二の巻に云く「若し人信ぜずして・此の経を毀謗せば・即ち一切世間の仏種を断ず・乃至余経の一偈をも受けざれ」と文の心は仏にならん為には唯法華経を受持せん事を願つて余経の一偈一句をも受けざれと、三の巻に云く「飢国より来つて忽ち大王の膳に遇うが如し」と文の心は飢えたる国より来つて忽に大王の膳にあへり心は犬野干