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日蓮大聖人・池田大作

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曾谷入道殿御返事  (1/2) 経も又是くの如く其の経の中の法門は其の経の…
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曾谷入道殿御返事

                    建治三年 五十六歳御作

妙法蓮華経一部一巻小字経御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本、文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と記の一に云く「若し超八の如是に非ずんば安ぞ此の経の所聞と為さん」と云云、華厳経の題に云く「大方広仏・華厳経・如是我聞」云云、「摩訶般若波羅蜜経・如是我聞」云云、大日経の題に云く「大毘盧遮那・神変加持経・如是我聞」云云、一切経の如是は何なる如是ぞやと尋ぬれば上の題目を指して如是とは申すなり、仏何の経にても・とかせ給いし其の所詮の理をさして題目とはせさせ給いしを、阿難・文殊・金剛手等・滅後に結集し給いし時題目をうちをいて如是我聞と申せしなり、一経の内の肝心は題目におさまれり例せば天竺と申す国あり九万里・七十箇国なり然れども其中の人畜・草木・山河・大地・皆月氏と申す二字の内にれきれきたり、譬えば一四天下の内に四洲あり其の中の一切の万物は月に移りてすこしもかくるる事なし、経も又是くの如く其の経の中の法門は其の経の題目の中にあり、阿含経の題目は一経の所詮・無常の理をおさめたり、外道の経の題目のあうの二字にすぐれたる事百千万倍なり、九十五種の外道・阿含経の題目を聞いてみな邪執を倒し無常の正路におもむきぬ、般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり、大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや、故に妙楽大師の記に云く「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云、


彼彼の諸経の題目は八教の内なり網目の如し、此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり、今妙法蓮華経と申す人人はその心をしらざれども法華経の心をうるのみならず一代の大綱を覚り給へり、例せば一二三歳の太子・位につき給いぬれば国は我が所領なり摂政・関白已下は我が所従なりとはしらせ給はねども、なにも此の太子の物なり、譬えば小児は分別の心なけれども悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを趙高が様に心おごれる臣下ありて太子をあなづれば身をほろぼす、諸経・諸宗の学者等・法華経の題目ばかりを唱うる太子をあなづりて趙高が如くして無間地獄に堕つるなり、又法華経の行者の心もしらず題目計りを唱うるが諸宗の智者におどされて退心をおこすはこがいと申せし太子が趙高におどされ・ころされしが如し。

南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり、かかるいみじき法門なれども仏滅後・二千二百二十余年の間・月氏に付法蔵の二十四人弘通し給はず、漢土の天台妙楽も流布し給はず、日本国には聖徳太子・伝教大師も宣説し給はず、されば和法師が申すは僻事にてこそ有るらめと諸人疑いて信ぜず是れ又第一の道理なり、譬えば昭君なんどをあやしの兵なんどが・おかしたてまつるを・みな人よも・さはあらじと思へり、大臣公卿なんどの様なる天台・伝教の弘通なからん法華経の肝心・南無妙法蓮華経を和法師程のものがいかで唱うべしと云云、汝等是を知るや烏と申す鳥は無下のげす鳥なれども鷲鵰の知らざる年中の吉凶を知れり、蛇と申す虫は竜象に及ばずとも七日の間の洪水を知るぞかし、設い竜樹天台の知り給はざる法門なりとも経文顕然ならばなにをか疑はせ給うべき、日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱えさせ給はぬは小児が乳をうたがふて・なめず病人が医師を疑いて薬を服せざるが如し、竜樹・天親等は是を知り給へども時なく機なければ弘通し給わざるか、余人は又しらずして宣伝せざるか、仏法は時により機によりて弘まる事なれば云うにかひなき日


蓮が時にこそあたりて候らめ。所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候、されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は猨をはなれて肝をたづねし・はかなき亀なり、山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猨猴なり」、はかなしはかなし。

  建治三年丁丑霜月二十八日              日蓮花押

   曾谷次郎入道殿

曾谷殿御返事

                    弘安二年八月 五十八歳御作

焼米二俵給畢ぬ、米は少と思食し候へども人の寿命を継ぐ者にて候、命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候と仏は説かせ給へり、米は命を継ぐ物なり譬えば米は油の如く命は燈の如し、法華経は燈の如く行者は油の如し檀那は油の如く行者は燈の如し、一切の百味の中には乳味と申して牛の乳第一なり、涅槃経の七に云く「猶諸味の中に乳最も為れ第一なるが如し」云云、乳味をせんずれば酪味となる酪味をせんずれば乃至醍醐味となる醍醐味は五味の中の第一なり、法門を以て五味にたとへば儒家の三千・外道の十八大経は衆味の如し、阿含経は醍醐味なり、阿含経は乳味の如く観経等の一切の方等部の経は酪味の如し、一切の般若経は生蘇味・華厳経は熟蘇味・無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし又涅槃経は醍醐のごとし法華経は五味の主の如し、妙楽大師云く「若し教旨を論ずれば法華は唯開権顕遠を以つて教の正主と為す独り妙の名を得る意此に在り」云云、又云く「故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主」等云云、此の釈は正く法華経は五味の中にはあらず此の釈の心は五味は