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日蓮大聖人・池田大作

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妙法比丘尼御前御返事 
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妙法比丘尼御前御返事

明衣一つ給び畢んぬ、女人の御身・男にもをくれ親類をも・はなれ一二人ある・むすめもはかばかしからず便りなき上・法門の故に人にも・あだまれさせ給ふ女人、さながら不軽菩薩の如し、仏の御姨母・摩訶波闍波提比丘尼は女人ぞかし、而るに阿羅漢とならせ給いて声聞の御名を得させ給ひ永不成仏の道に入らせ給いしかば、女人の姿をかへ・きさきの位を捨てて仏の御すすめを敬ひ、四十余年が程・五百戒を持ちて昼は道路にたたずみ・夜は樹下に坐して後生をねがひしに、成仏の道を許されずして永不成仏のうきなを流させ給いし、くちをしかりし事ぞかし、女人なれば過去遠遠劫の間有るに付けても無きに付けても・あだなを立てし、はづかしく口惜かりしぞかし、其の身をいとひて形をやつし尼と成りて候へば・かかる・なげきは離れぬとこそ思ひしに、相違して二乗となり永不成仏と聞きしは・いかばかり・あさましくをわせしに、法華経にして三世の諸仏の御勘気を許され、一切衆生喜見仏と成らせ給いしは・いくら程か・うれしく悦ばしくをはしけん、さるにては法華経の御為と申すには何なる事有りとも背かせ給うまじきぞかし、其に仏の言わく大音声を以て普く四衆に告げたまわく誰れか能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん等云云、我も我もと思うに諸仏の恩を報ぜんと思はん尼御前女人達、何事をも忍びて我が滅後に此の娑婆世界にして法華経を弘むべしと三箇度まで・いさめさせ給いしに、御用ひなくして他方の国土に於て広く此の経を宣べんと申させ給いしは能く能く不得心の尼ぞかし、幾くか仏悪しと・をぼしけん、されば仏はそばむきて八十万億那由佗の諸菩薩をこそ・つくづくと御覧ぜしか。


されば女人は由なき道には名を折り命を捨つれども成仏の道はよはかりけるやと・をぼへ候に、今末代悪世の女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ島のえびすにのられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし、王となる人は過去にても現在にても十善を持つ人の名なり名は・かはれども師子の座は一也、此の名も・かはるべからず、彼の仏の御言をさかがへす尼だにも一切衆生喜見仏となづけらる、是は仏の言をたがへず此の娑婆世界まで名を失ひ命をすつる尼なり、彼は養母として捨て給はず是は他人として捨てさせ給はば偏頗の仏なり、争でかさる事は候べき、況や其中衆生悉是吾子の経文の如くならば今の尼は女子なり彼の尼は養母なり、養母を捨てずして女子を捨つる仏の御意やあるべき、此の道理を深く御存知あるべし、しげければ・とどめ候い畢んぬ。

                            日蓮花押

  妙法尼御前

内房女房御返事

内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、御布施料に十貫まいらせ候乃至あなかしこあなかしこ、御願文の状に云く「読誦し奉る妙法蓮華経一部読誦し奉る方便寿量品三十巻読誦し奉る自我偈三百巻唱え奉る妙法蓮華経の題名五万返」云云同状に云く「伏して惟れば先考の幽霊生存の時弟子遙に千里の山河を凌ぎ親り妙法の題名を受け然る後三十日を経ずして永く一生の終りを告ぐ」等云云、又云く


「嗚呼閻浮の露庭に白骨仮りに塵土と成るとも霊山の界上に亡魂定んで覚蘂を開かん」又云く「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」等云云。

夫れ以れば一乗妙法蓮華経は月氏国にては一由旬の城に積み日本国にては唯八巻なり、然るに現世後生を祈る人或は八巻或は一巻或は方便寿量或は自我偈等を読誦し讃歎して所願を遂げ給ふ先例之多し此は且らく之を置く、唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返と云云、此の一段を宣べんと思いて先例を尋ぬるに其の例少なし、或は一返・二返唱へて利生を蒙る人粗これ有るか、いまだ五万返の類を聞かず、但し一切の諸法に亘りて名字あり其の名字皆其の体徳を顕はせし事なり、例せば石虎将軍と申すは石の虎を射徹したりしかば石虎将軍と申す、的立の大臣と申すは鉄的を射とをしたりしかば的立の大臣と名く、是皆名に徳を顕はせば今妙法蓮華経と申し候は一部八巻・二十八品の功徳を五字の内に収め候、譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し、一塵に三千を尽す法門是なり、南無と申す字は敬う心なり随う心なり、故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云、南岳大師云く南無妙法蓮華経云云、天台大師云く稽首南無妙法蓮華経云云、阿難尊者は斛飯王の太子・教主釈尊の御弟子なり、釈尊御入滅の後六十日を過ぎて迦葉等の一千人・文殊等の八万人・大閣講堂にして集会し給いて仏の別を悲しみ給ふ上、我等は多年の間・随逐するすら六十日の間の御別を悲しむ、百年・千年・乃至末法の一切衆生は何をか仏の御形見とせん、六師外道と申すは八百年以前に二天・三仙等の説き置きたる四韋陀・十八大経を以てこそ師の名残とは伝へて候へ、いざさらば我等五十年が間・一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経経を書き置きて未来の衆生の眼目とせんと僉議して、阿難尊者を高座に登せて仏を仰ぐ如く、下座にして文殊師利菩薩・南無妙法蓮華経と唱へたりしかば、阿難尊者此れを承け取りて如是我聞と答ふ、九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染めて書き留め給いぬ、一部八巻・二十八品の功徳は此の五字に収めて候へばこそ文殊師利菩薩かくは唱へさせ給