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日蓮大聖人・池田大作

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顕謗法抄  (18/18) 若し智慧有つて信心有ること無き是の人は則ち…
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て慧無く顛倒して義を解するが故に」等と云云、顛倒解義とは実経の文を得て権経の義を覚る者なり。

問うて云く信而不解・得道の文如何、答えて云く涅槃経の三十二に云く「是れ菩提の因は復無量なりと雖も若し信心を説けば已に摂尽す」文九に云く「此の経を聞き已つて悉く皆菩提の因縁と作る法声光明毛孔に入る者は必定して当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等と云云、法華経に云く「信を以て入ることを得」等と云云、問うて云く解而不信の者は如何、答う恒河の第一の者なり、問うて云く証文如何、答えて云く涅槃経の三十六に第一を説て云く「人有りて是の大涅槃経の如来常住無有変易常楽我浄を聞くとも終に畢竟して於涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは一闡提の人なり方等経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも必ず当に菩提の道を成ずることを得べし須陀洹の人・斯陀含の人・阿那含の人・阿羅漢の人・辟支仏等必ず当に阿○菩提を成ずることを得べし是の語を聞き已つて不信の心を生ず」等と云云。

問うて云く此の文不信とは見えたり解而不信とは見えず如何、答えて云く第一の結文に云く「若し智慧有つて信心有ること無き是の人は則ち能く邪見を増長す」文。


持妙法華問答抄

                   弘長三年 四十二歳御作

抑も希に人身をうけ適ま仏法をきけり、然るに法に浅深あり人に高下ありと云へり何なる法を修行してか速に仏になり候べき願くは其の道を聞かんと思ふ、答えて云く家家に尊勝あり国国に高貴あり皆其の君を貴み其の親を崇むといへども豈国王にまさるべきや、爰に知んぬ大小・権実は家家の諍ひなれども一代聖教の中には法華独り勝れたり、是れ頓証菩提の指南・直至道場の車輪なり、疑つて云く人師は経論の心を得て釈を作る者なり然らば則ち宗宗の人師・面面・各各に教門をしつらい釈を作り義を立て証得菩提と志す何ぞ虚しかるべきや、然るに法華独り勝ると候はば心せばくこそ覚え候へ、答えて云く法華独りいみじと申すが心せばく候はば釈尊程心せばき人は世に候はじ何ぞ誤りの甚しきや、且く一経・一流の釈を引いて其の迷をさとらせん、無量義経に云く「種種に法を説き種種に法を説くこと方便力を以てす四十余年未だ真実を顕さず」云云、此の文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩・一同に「無量無辺不可思議阿僧祗劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解し給へり、此の文の心は華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いていかに念仏を申し禅宗を持ちて仏道を願ひ無量無辺・不可思議・阿僧祗劫を過ぐるとも無上菩提を成ずる事を得じと云へり、しかのみならず方便品には「世尊は法久くして後要当に真実を説きたもうべし」ととき、又唯有一乗法・無二亦無三と説きて此の経ばかりまことなりと云い、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教へ「但楽いて大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けず」と説き給へり、文の心はただわれ一人して・よくすくひ・まもる事をなす、法華経をうけたもたん事をねがひて余経の一偈をも・うけざれと見えたり、又云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を


断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、此の文の心は若し人・此の経を信ぜずして此の経にそむかば則ち一切世間の仏のたねを・たつものなりその人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり、此等の文をうけて天台は将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり、唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、之に依つて智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云つて一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり、天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。

問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ、されば釈には「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕す」と申して法華経にて如来の本意も教化の儀式も定りたりと見えたり、之に依つて天台は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」と云へり、此の文の心は如来・世に出でさせ給いて四十余年が間は真実の法をば顕さず法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。

問うて云く已今当の中に法華経・勝れたりと云う事はさも候べし、但し有人師の云く四十余年未顕真実と云うは法華経にて仏になる声聞の為なり爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云うべからずと云う義をばいかが心得