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日蓮大聖人・池田大作

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顕謗法抄  (11/18) 後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の…
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の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべしとみえたり。

されば大荘厳仏の末の四の比丘は自ら悪法を行じて十方の大阿鼻地獄を経るのみならず、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕しぬ、鴦堀摩羅は摩尼跋陀が教に随つて九百九十九人の指をきり結句・母・並に仏をがいせんとぎす、善星比丘は仏の御子・十二部経を受持し四禅定をえ欲界の結を断じたりしかども苦得外道の法を習うて生身に阿鼻地獄に堕ちぬ、提婆が六万蔵・八万蔵を暗じたりしかども外道の五法を行じて現に無間に堕ちにき、阿闍世王の父を殺し母を害せんと擬せし大象を放つて仏をうしない・たてまつらんとせしも悪師提婆が教なり、倶伽利比丘が舎利弗・目連をそしりて生身に阿鼻に堕せし、大族王の五竺の仏法僧をほろぼせし、大族王の舎弟は加溼弥羅国の王となりて健駄羅国の率都婆・寺塔・一千六百所をうしなひし、金耳国王の仏法をほろぼせし、波瑠璃王の九千九十万人の人をころして血ながれて池をなせし、設賞迦王の仏法を滅し菩提樹をきり根をほりし、後周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし、此等は皆悪師を信じ悪鬼其の身に入りし故なり。

問うて云く天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし小乗が大乗をやぶるとみえたり、此の日本国もしかるべきか、答えて云く月支・尸那には外道あり小乗あり此の日本国には外道なし小乗の者なし、紀典博士等これあれども仏法の敵となるものこれなし、小乗の三宗これあれども彼宗を用て生死をはなれんとをもはず但大乗を心うる才覚とをもえり、但し此の国には大乗の五宗のみこれあり人人皆をもえらく彼の宗宗にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり、又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。

第四に行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし、五義とは一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後なり、第一に教とは如来一代五


十年の説教は大小・権実・顕密の差別あり、華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす、南三・北七・並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師・此の義なり、法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり、三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり、真言宗には日本国に二の流あり東寺流は弘法大師・十住心を立て第八法華・第九華厳・第十真言・法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり、天台の真言は慈覚大師等・大日経と法華経とは広略の異・法華経は理秘密・大日経は事理倶密なり、浄土宗には聖道・浄土・難行・易行・雑行・正行を立てたり浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり、禅宗には二の流あり一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり一流は如来一代の聖教は皆言説・如来の口輪の方便なり禅師は如来の意密言説にをよばず教外の別伝なり、倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり天竺・震旦には小乗宗の者・大乗を破する事これ多し日本国には其の義なし。

問うて云く諸宗の異義区なり一一に其の謂れありて得道をなるべきか・又諸宗・皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか、答えて云く異論相違ありといえども皆得道なるか、仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王仏法を貴み一夏・僧を供し仏法をといしに一一の僧・異義多し此の王不審して云く仏説は定て一ならんと終に脇尊者に問う、尊者答て云く金杖を折つて種種の物につくるに形は別なれども金杖は一なり形の異なるをば諍うといへども金たる事をあらそはず、門門不同なればいりかどをば諍えども入理は一なり等と云云、又求那跋摩云く諸論各異端なれども修行の理は二無し偏執に是非有りとも達者は違諍無し等と云云、又五百羅漢の真因各異なれども同く聖理をえたり、大論の四悉檀の中の対治悉檀・摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣・此等は此の善を嫌い


此の善をほむ、檀戒進等一一にそしり一一にほむる皆得道をなる、此等を以てこれを思うに護法・清弁のあらそい・智光・戒賢の空中・南三・北七の頓・漸・不定・一時・二時・三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・天台の五時・華厳の五教・真言教の東寺・天台の諍・浄土宗の聖道・浄土・禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。

難じて云く華厳の五教・法相・三論の三時・禅宗の教外・浄土宗の難行・易行・南三北七の五時等門はことなりと・いへども入理・一にして皆仏意に叶い謗法とならずといはば謗法という事あるべからざるか・謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならば・なんぞ苦果をまねかざらん、此の道理にそむく・これひとつ、大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」法華経に云く「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と涅槃経に云く「世に難治の病三あり・一には四重・二には五逆・三には謗大乗なり」此等の経文あに・むなしかるべき、此等は証文なり、されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたりこれは現証なり、天親菩薩は小乗の論を作つて諸大乗経をはしき、後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給いき、謗法もし罪とならずんば・いかんが千部の論師懺悔をいたすべき、闡提とは天竺の語此には不信と翻す不信とは一切衆生・悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。

不信とは謗法の者なり恒河の七種の衆生の第一は一闡提・謗法常没の者なり、第二は五逆謗法・常没等の者なりあに謗法ををそれざらん、答えて云く謗法とは只由なく仏法を謗ずるを謗法というか我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは仮令人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申すこれは随喜讃歎すべし、又善人あり