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日蓮大聖人・池田大作

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寿量品得意抄  (2/2) 一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月…
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遠実成の寿量品を説かざる過なり、此の二つの大法は一代聖教の綱骨・一切経の心髄なり、迹門には二乗作仏を説いて四十余年の二つの失・一つを脱したり、然りと雖も未だ寿量品を説かざれば実の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水にやどる月の如く根無し草の浪の上に浮べるに異ならず、又云く「然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫」等云云、此の文の心は華厳経の始成正覚と申して始て仏になると説き給ふ阿含経の初成道・浄名経の始坐仏樹・大集経の始十六年・大日経の我昔坐道場・仁王経の二十九年、無量義経の我先道場・法華経方便品の我始坐道場等を一言に大虚妄なりと打破る文なり、本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうして・かへてみるときは華厳経の台上盧舎那・阿含経の丈六の小釈迦・方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は此の寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小の・うつはものに浮べ給うを、諸宗の智者学匠等は近くは自宗にまどひ遠くは法華経の寿量品を知らず水中の月に実月のおもひをなして或は入つて取らんとおもひ・或は繩をつけて・つなぎとどめんとす、此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と、心は爾前・迹門に執着する者はそらの月をしらずして但池の月を・のぞみ見るが如くなりと釈せられたり、又僧祇律の文に五百の猨・山より出でて水にやどれる月をみて入つてとらんとしけるが・実には無き水月なれば月とられずして水に落ち入つて猨は死にけり、猨とは今の提婆達多・六群比丘等なりとあかし給へり。

一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠から


ず親無き子は人に・いやしまる、所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ、恐恐謹言。

  四月十七日                     日蓮花押

五人土籠御書

                 文永八年十月 五十歳御作 於相模依智作

                 与 日朗・日心・坂部入道・伊沢入道・得業寺

   五人御中参                    日蓮

  せんあくてご房をばつけさせ給へ、又しらうめが一人あらんするがふびんに候へば申す。

今月七日さどの国へまかるなり、各各は法華経一部づつ・あそばして候へば我が身並びに父母・兄弟・存亡等に回向しましまし候らん、今夜のかんずるにつけて・いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし、ろうをいでさせ給いなば明年のはるかならずきたり給えみみへ・まいらすべし、せうどのの但一人あるやつを・つけよかしとをもう心・心なしとをもう人一人もなければしぬまで各各御はぢなり。

又大進阿闍梨はこれにさたすべき事かたがたあり、又をのをのの御身の上をも・みはてさせんが・れうにとどめをくなり、くはしくは申し候わんずらん、恐恐謹言。

  十月三日                      日蓮花押

   五人御中


土籠御書

                    文永八年十月 五十歳御作

                    与 日朗    於相模依智

日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ、あはれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば・父母・六親・一切衆生をも・たすけ給うべき御身なり、法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ、天諸童子・以為給使・刀杖不加毒不能害と説かれて候へば別の事はあるべからず、籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん、恐恐謹言。

  文永八年辛未十月九日                日蓮花押

   筑後殿

日妙聖人御書

                    文永九年五月 五十一歳御作

過去に楽法梵志と申す者ありき、十二年の間・多くの国をめぐりて如来の教法を求む、時に総て仏法僧の三宝一つもなし、此の梵志の意は渇して水をもとめ飢えて食をもとむるがごとく仏法を尋ね給いき、時に婆羅門あり求めて云く我れ聖教を一偈持てり若し実に仏法を願はば当にあたふべし、梵志答えて云くしかなり、婆羅門の云く実に志あらば皮をはいで紙とし・骨をくだいて筆とし・髄をくだいて墨とし・血をいだして水として書かんと云