Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

星名五郎太郎殿御返事  (1/4) 其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者…
1206

星名五郎太郎殿御返事

                    文永四年十二月 四十六歳御作

漢の明夜夢みしより迦・竺・二人の聖人・初めて長安のとぼそに臨みしより以来・唐の神武皇帝に至るまで天竺の仏法・震旦に流布し、梁の代に百済国の聖明王より我が朝の人王三十代・欽明の御宇に仏法初めて伝ふ、其れより已来・一切の経論・諸宗・皆日域にみてり、幸なるかな生を末法に受くるといへども霊山のきき耳に入り身は辺土に居せりといへども大河の流れ掌に汲めり、但し委く尋ね見れば仏法に於て大小・権実・前後のおもむきあり、若し此の義に迷いぬれば邪見に住して仏法を習ふといへども還つて十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚しきなり、爰を以て世を厭ひ道を願はん人先ず此の義を存ずべし、例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く「若し邪見なる事有らんに命終の時・正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。

問う何を以てか邪見の失を知らん予不肖の身たりといへども随分・後世を畏れ仏法を求めんと思ふ、願くは此の義を知らん、若し邪見に住せば・ひるがへして正見におもむかん、答う凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先とせん、但恐くは若し此の義を明さば定めていかりをなし憤りを含まん事を、さもあらばあれ仏勅を重んぜんにはしかず、其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず、人貴むとも非ならば何ぞ今用いん、伝え聞く彼の南三・北七の十流の学者・威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事・既に五百余年まで有りしかども陳隋二代の比・天台大師・是を見て邪義なりと破す、天下に此の事を聞いて大きに是をにくむ、然りといへども陳王・隋帝の賢王たるに依て彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて前五百年の邪義を改め


皆悉く大師に帰す。

又我が朝の叡山の根本大師は南都・北京の碩学と論じて仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり、今当世の道俗・貴賤皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず、之に依て或は念仏・権教を以て大乗妙典をなげすて・或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず、是等の類・豈大乗誹謗のやからに非ずや、若し経文の如くならば争か那落の苦みを受けざらんや、之に依て其の流をくむ人も・かくの如くなるべし、疑つて云く念仏・真言は是れ或は権・或は邪義・又行者或は邪見或は謗法なりと此の事甚だ以て不審なり、其の故は弘法大師は是れ金剛薩埵の化現・第三地の菩薩なり、真言は是れ最極甚深の秘密なり、又善導和尚は西土の教主・弥陀如来の化身なり、法然上人は大勢至菩薩の化身なりかくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり、真言の教は最極の秘密なりと云うは三部経の中に於て蘇悉地経を以て王とすと見えたり、全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云う事を見ず、凡そ仏法と云うは善悪の人をゑらばず皆仏になすを以て最第一に定むべし、是れ程の理をば何なる人なりとも知るべきことなり、若し此の義に依らば経と経とを合せて是を挍すべし、今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへ・あながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経には・すべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき、又若し其の瑞相を論ぜば法華には六瑞あり、所謂雨華地動し白毫相の光り上は有頂を極め下は阿鼻獄を照せる是なり、又多宝の塔・大地より出て分身の諸仏十方より来る、しかのみならず上行等の菩薩の六万恒沙・五万・四万・三万乃至・一恒沙・半恒沙等大地よりわきいでし事・此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言法華にまされりと云わん、此等の事委くのぶるにいとまあらず・はづかに大海の一滴を出す。


爰に菩提心論と云う一巻の文あり竜猛菩薩の造と号す、此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕いて書るさず」と云えり、此の語は大に不審なるに依て経文に就てこれを見るに即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし、たとひありとも法華経の中に即身成仏あらば諸教の中にをいてかいて而もかかずと云うべからず此の事甚だ以て不可なり、但し此の書は全く竜猛の作にあらず委き旨は別に有るべし、設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり、故に大論に一代をのぶる肝要として「般若は秘密にあらず二乗作仏なし法華は是秘密なり二乗作仏あり」と云えり、又云く「二乗作仏あるは是秘密・二乗作仏なきは是顕教」と云えり、若し菩提心論の語の如くならば別しては竜樹の大論にそむき総じては諸仏出世の本意・一大事の因縁をやぶるにあらずや、今竜樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出ず、付法蔵・二十四人の其の一なり何ぞ此くの如き妄説をなさんや、彼の真言は是れ般若経にも劣れり何に況や法華に並べんや、爾るに弘法の秘蔵宝鑰に真言に一代を摂するとして法華を第三番に下し、あまつさへ戯論なりと云えり、謹んで法華経を披きたるに諸の如来の所説の中に第一なりと云えり、又已今当の三説に勝れたりと見えたり、又薬王の十喩の中に法華を大海にたとへ・日輪にたとへ・須弥山にたとへたり、若し此の義に依らば深き事何ぞ海にすぎん・明かなる事何ぞ日輪に勝れん・高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん、喩を以て知んぬべし何を以てか法華に勝れたりと云はんや、大日経等に全く此の義なし但己が見に任せて永く仏意に背く、妙楽大師曰く「請う眼有らん者は委悉に之を尋ねよ」と云へり、法華経を指て華厳に劣れりと云うは豈眼ぬけたるものにあらずや、又大経に云く「若し仏の正法を誹謗する者あらん正に其の舌を断べし」と、嗚呼・誹謗の舌は世世に於て物云うことなく邪見の眼は生生に・ぬけて見ること無らん加之らず「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば・乃至其の人命終えて阿鼻獄に入らん」の文の如くならば定めて無間大城に堕ちて無量億劫のくるしみを受けん、善導・法然も是に例して知んぬべし、