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日蓮大聖人・池田大作

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別当御房御返事 
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衆生を度す」云云、前前申す如く御心得あるべく候、穴賢穴賢。

  弘安元年戊寅卯 月 日               日蓮花押

   浄顕房

   義浄房

別当御房御返事

聖密房のふみに・くはしく・かきて候よりあいて・きかせ給い候へ、なに事も二間清澄の事をば聖密房に申しあわせさせ給うべく候か、世間のりをしりたる物に候へばかう申すに候、これへの所当なんどの事は・ゆめゆめをもはず候、いくらほどの事に候べき、但なばかりにてこそ候はめ、又わせいつをの事をそれ入つて候、いくほどなき事に御心ぐるしく候らんと・かへりてなげき入つて候へども・我が恩をば・しりたりけりと・しらせまつらんために候、大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ震旦高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみて其の願の満すべきしるしにや、大蒙古国の牒状しきりにありて此の国の人ごとの大なる歎きとみへ候、日蓮又先きよりこの事をかんがへたり閻浮第一の高名なり、先きよりにくみぬるゆへに・ままこのかうみやうのやうに専心とは用い候はねども・終に身のなげき極まり候時は辺執のものどもも一定とかへぬとみへて候、これほどの大事をはらみて候ものの少事をあながちに申し候べきか、但し当時・日蓮心ざす事は生処なり日本国よりも大切にをもひ候、例せば漢王の沛郡を・をもくをぼしめししがごとし・かれ生処なるゆへなり、


聖智が跡の主となるをもつてしろしめせ、日本国の山寺の主ともなるべし、日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり・天のあたへ給うべきことわりなるべし。

米一斗六升・あはの米二升・やき米はふくろへ・それのみならず人人の御心ざし申しつくしがたく候、これは・いたみをもひ候、これより後は心ぐるしく・をぼしめすべからず候、よく人人にしめすべからず候、よく人人にもつたへさせ給い候へ

  乃 時

   別当御房御返事

寂日房御書

                    弘安二年九月 五十八歳御作

                    与 寂日房日家 於身延

是まで御をとづれかたじけなく候、夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。

日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり、父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し、釈迦多宝の二仏・日蓮が父母と変じ給うか、然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に


覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。

日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわいちやうりやうまさかどすみともといはれたる者は名を・をしむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ、獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。

此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上・今日は我が身の上なり、花さけばこのみなり・よめのしうとめになる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、度度の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

  九月十六日                     日蓮花押