き底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云、是を以て漢土に禅宗興ぜしかば其の国忽ちに亡びき本朝の滅す可き瑞相に闇証の禅師充満す、止観に云く「此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり」云云。
禅宗云く法華宗は不立文字の義を破す何故ぞ仏は一字不説と説き給うや、答う汝楞伽経の文を引くか本法自法の二義を知らざるか学ばずんば習うべし其の上彼の経に於いては未顕真実と破られ畢んぬ何ぞ指南と為ん。
問うて云く像法決疑経に云く「如来の一句の法を説きたもうを見ず」云云如何、答う是は常施菩薩の言なり法華経には「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云つて八万の菩薩も千二百の羅漢も悉く皆列座し聴聞随喜す、常施一人は見えず何れの説に依る可き法華の座に挙ぐる菩薩の上首の中に常施の名之無し見えずと申すも道理なり、何に況や次下に「然るに諸の衆生出没有るを見て法を説いて人を度す」云云、何ぞ不説の一句を留めて可説の妙理を失う可き、汝が立義一一大僻見なり執情を改めて法華に帰伏す可し、然らずんば豈無道心に非ずや。
八宗違目抄
文永九年二月 五十一歳御作
与 富木常忍
記の九に云く「若し其れ未だ開せざれば法報は迹に非ず若し顕本し已れば本迹各三なり」文句の九に云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
┌─法身如来 ┌─正因仏性
│ │
仏───────┼─報身如来 衆生─┼─了因仏性
│ │
└─応身如来 └─縁因仏性
┌─小乗経には仏性の有無を論ぜず。
│
衆生の仏性───┼─華厳・方等・般若・大日経等には衆生本より正因仏性
│ 有つて了因・縁因無し。
│
└─法華経には本より三因仏性有り。
文句の十に云く「正因仏性法身の性なりは本当に通亙す、縁・了仏性は種子本有なり今に適むるに非ざるなり」
┌─今此の三界は皆是れ我が有なりり──主国王世尊なり
│
法華経第二に云く┼─其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり─親父なり
│
├─而も今此の処は諸の患難多し─┐
│ ├──導師なり
└─唯我一人のみ能く救護をなす─┘
┌─主──国王──報身如来
│
寿量品に云く我も亦為世の父文┼─師──────応身如来
│
└─親──────法身如来
五百問論に云く「若し父の寿の遠を知らずして復父統の邦に迷わば徒らに才能と謂うとも全く人の子に非ず」又云く「但恐らくは才一国に当るとも父母の年を識らざらんや」
古今仏道論衡道宣の作に云く「三皇已前は未だ文字有らず但其の母を識つて其の父を識らず禽獣に同じ鳥等なり」等云云、慧遠法師周の武帝を詰る語なり
倶舎宗─┐
成実宗─┼─一向に釈尊を以て本尊と為す爾りと雖も但応身に限る。
律 宗─┘
華厳宗─┐
三論宗─┼─釈尊を以て本尊と為すと雖も法身は無始無終・報身は有始無終・
法相宗─┘ 応身は有始有終なり。
┌─一義に云く大日如来は釈迦の法身なり。
真言宗───一向に大日如来を以て┤
本尊と為す二義有り└─一義に云く大日如来は釈迦の法身には非ず。
但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり人師よりの僻見なり。
浄土宗──一向に阿弥陀如来を以て本尊と為す。
法華宗より外の真言等の七宗・並に浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず、例せば三皇已前の人・禽獣に同ずるが如し鳥の中に鷦鷯鳥も鳳凰鳥も父を知らず獣の中には兎も師子も父を知らず、三皇以前は大王も小民も共に其の父を知らず天台宗よりの外真言等の諸宗の大乗宗は師子と鳳凰の如く小乗宗は鷦鷯と兎等の如く共に父を知らざるなり。
華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏に之有り。
真言宗に十界互具一念三千を立つること大日経の疏に之を出す。
天台宗と同異如何、天台宗已前にも十界互具・一念三千を立つるや、記の三に云く「然るに衆釈を攅むるに既に三乗及び一乗・三一倶に性相等の十有りと許す何すれぞ六道の十を語らざるや」此の釈の如くんば天台已前五百余年の人師三蔵等の法華経に依る者一念三千の名目を立てざるか。
問うて云く華厳宗は一念三千の義を用いるや華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之を立つ、答えて云く澄観の疏三十三清涼国師に云く「止観の第五に十法成乗を明す中の第二に真正発菩提心○釈して云く然も此の経の上下の発心の義は文理淵博にして其の撮略を見る故に取つて之を用い引いて之を証とす」と、二十九に云く「法華経に云く唯仏与仏等と天台云く○便ち三千世間を成すと彼の宗には此れを以つて実と為す○一家の意理として通ぜざる無し」文。
華厳経に云く旧訳には功徳林菩薩之を説くと、新訳には覚林菩薩之を説くと、弘決には如来林菩薩と引く「心は工なる画師の種種の五陰を画くが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と是の三差別無し若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると」