Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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土籠御書 
1216

功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず、但し不孝の者は父母の跡をつがず堯王には丹朱と云う太子あり舜王には商均と申す王子あり、二人共に不孝の者なれば父の王にすてられて現身に民となる、重華と禹とは共に民の子なり・孝養の心ふかかりしかば堯舜の二王・召して位をゆづり給いき、民の身・忽ち玉体にならせ給いき、民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同じ事なるべし、一念三千の肝心と申すはこれなり、なをいかにとしてか此功徳をばうべきぞ、楽法梵志・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか・身をなぐべきか臂をやくべきか等云云、章安大師云く「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん、然るに玄奘は西天に法を求めて十七年・十万里にいたれり、伝教御入唐但二年なり波濤三千里をへだてたり。

此等は男子なり・上古なり・賢人なり・聖人なり・いまだきかず女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を、竜女が即身成仏も摩訶波闍波提比丘尼の記莂にあづかりしも、しらず権化にや・ありけん、又在世の事なり、男子・女人其の性本より別れたり・火はあたたかに・水はつめたし海人は魚をとるに・たくみなり・山人は鹿をとるに・かしこし、女人は物をそねむに・かしこしとこそ経文には・あかされて候へ、いまだきかず仏法に・かしこしとは、女人の心を清風に譬えたり風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり、女人の心をば水にゑがくに譬えたり、水面には文字とどまらざるゆへなり、女人をば誑人にたとへたり、或時は実なり或時は虚なり、女人をば河に譬


えたり・一切まがられる・ゆへなり、而るに法華経は・正直捨方便等・皆是真実等・質直意柔輭等・柔和質直者等と申して正直なる事・弓の絃のはれるがごとく・墨のなはを・うつがごとくなる者の信じまいらする御経なり、糞を栴檀と申すとも栴檀の香なし、妄語の者を不妄語と申すとも不妄語にはあらず、一切経は皆仏の金口の説・不妄語の御言なり、然れども法華経に対し・まいらすれば妄語のごとし・綺語のごとし・悪口のごとし・両舌のごとし、此の御経こそ実語の中の実語にて候へ、実語の御経をば・正直の者心得候なり、今実語の女人にて・おはすか、当に知るべし須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも此の女人をば見るべからず、砂をむして飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず、当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん、日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。

相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに・へだて山は峨峨・海は濤濤・風雨・時にしたがふ事なし、山賊・海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし・犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず、而れども一の幼子あり・あづくべき父も・たのもしからず・離別すでに久し。

かた・がた筆も及ばず心弁へがたければとどめ畢んぬ。

  文永九年太歳壬申五月二十五日            日蓮花押

   日妙聖人


乙御前御消息

                    建治元年八月 五十四歳御作

漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は三皇・五帝・三王・乃至大公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給いて候いし文を或は経となづけ或は典等となづく、此の文を披いて人に礼儀をおしへ・父母をしらしめ・王臣を定めて世をおさめしかば人もしたがひ天も納受をたれ給ふ、此れに・たがいし子をば不孝の者と申し臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時・或一類は用ふべからずと申し或一類は用うべしと申せし程に・あらそひ出来て召し合せたりしかば外典の者・負けて仏弟子勝ちにき、其の後は外典の者と仏弟子を合せしかば・冰の日に・とくるが如く・火の水に滅するが如く・まくるのみならず・なにともなき者となりしなり、又仏経漸くわたり来りし程に仏経の中に又勝劣・浅深候いけり、所謂小乗経・大乗経・顕経・密経・権経・実経なり、譬えば一切の石は金に対すれば一切の金に劣れども・又金の中にも重重あり、一切の人間の金は閻浮檀金には及び候はず、閻浮檀金は梵天の金には及ばざるがごとく・一切経は金の如くなれども又勝劣・浅深あるなり、小乗経と申す経は世間の小船のごとく・わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸につけて彼岸へは行きがたし、又すこしの物をば入るれども大なる物をば入れがたし、大乗と申すは大船なり人も十・二十人も乗る上・大なる物をも・つみ・鎌倉より・つくしみちの国へもいたる。

実経と申すは又彼の大船の大乗経には・にるべくもなし、大なる珍宝をも・つみ百千人のりて・かうらいなんどへも・わたりぬべし、一乗法華経と申す経も又是くの如し、提婆達多と申すは閻浮第一の大悪人なれども法華経にして天王如来となりぬ、又阿闍世王と申せしは父をころせし悪王なれども法華経の座に列りて一偈一句の結縁