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日蓮大聖人・池田大作

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釈迦一代五時継図  (18/25) 人を謗じ法を謗ずれば定めて阿鼻獄に堕ちて更…
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仏の名を得れども後に望むれば戯論と作る」云云、又云く「人を謗じ法を謗ずれば定めて阿鼻獄に堕ちて更に出ずる期無し、世人斯の義を知らずして舌に任せて輙すく談じて深害を顧みず寧ろ日夜に十悪五逆を作るべしとも一言一語も人法を謗ず可からず」云云、大日経に云く「仏・不思議の真言相道の法を説くに一切の声聞・縁覚を共にせず亦普く一切衆生の為にするに非ず」法華経の二に云く「汝等若し能く此の語を信受せば一切皆当に仏道を成ずることを得べし是の乗微妙にして清浄第一なり」云云、又云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説・諸説の中に於て最も甚深為り」又云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵・諸経の中に於て最も其の上に在り」六波羅蜜経に五蔵・五味を説く、私に云く此の経は天台御入滅已後百余年に天竺より漢土に来れり爾れば見ざる経の醍醐を盗むと書くは謬失なり弘法の二教論の下に云く「喩して曰く今斯の経文に依らば仏五味を以て五蔵に配当し惣持を醍醐と称し四味を四蔵に譬え給えり、振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名く若し斯の経を鑒みば則ち掩耳の智割剖を待たじ」云云、又云く「毘盧遮那経の疏に順ぜば阿字を釈す」云云、私に云く毘盧遮那経疏供養法の巻は竜樹入滅已後八百年の造疏なり、而るに菩提心論に此の事を引き載せたり故に知んぬ菩提心論は竜樹の釈に非るなり又云く「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是三摩地の法を説く諸教の中に於て闕いて書せず」云云。

一、真言は別仏の説に非る事

大日経の一の巻の五仏は中央は大日如来と説く同五巻の五仏は中央は毘盧遮那と説く第一の巻の五仏は中央は釈迦牟尼仏と説く、文句の九に云く普賢観は法華を結成す文に云く釈迦牟尼仏を毘盧遮那と名くと、乃ち是れ異名なり別体なるに非ざるなり、安然の教時義に云く「真言宗の本地毘盧遮那は即ち天台宗の妙法蓮華経最深密処同仏なり」、智証大師の授決集に云く「真言・禅門・華厳・三論・唯識・律宗・成・倶の二論等は若し法華・涅槃経等


の経に望むれば是れ摂引の門なり」云云、金剛頂経に云く「婆伽梵釈迦牟尼如来・一切平等に善く通達するが故に一切方を平等に観察して四方に坐し給う不動如来・宝生如来・観自在王如来・不空成就如来」云云、大日経普通真言蔵品の四に云く「時に釈迦牟尼世尊宝処三昧に入つて自心及び眷属の真言を説き給う」文、大日経の第二に云く「我昔道場に坐して四魔を降伏し大勤勇の声を以て衆生の怖畏を除く、是の時梵天等心喜共に称説す此れに由つて諸の世間号して大勤勇と名く我本不生を覚る」云云、前唐院金剛頂経の疏に云く「成仏已来甚大久遠なり未だ所経の劫数を説かざる所以は経に於て各傍正の義有り故に彼の法華の久遠の成仏も亦是れ此の経の毘盧遮那仏と異解す可からず」云云、仏法伝来の次第に云く「大師智拳印を結びて南方に向う面門俄かに開けて金色の毘盧遮那と成り即便ち本体に還帰す」云云、涅槃経の七の巻に仏迦葉に告げ給わく「我般涅槃して七百歳の後是の魔波旬・漸く当に我が正法を壊乱すべし、乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作らん魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作りて我が正法を壊らん」云云。

一、禅宗謗罪を作す事

円覚経に云く「修多羅の教は月を標す指の如し」文方便品に云く「或は修多羅を説く衆生に随順して説く大乗に入るに為れ本なり」梵天王問仏決疑経に云く「梵王・霊山会上に至つて金色の沙羅華を以て仏に献り仏群生の為に法を説き給えと請す世尊坐に登り華を拈して衆に示して青蓮の目を瞬す天人百万悉く皆措くこと罔し独り金色の頭陀・破顔微笑す、世尊の言く吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相微妙の法門有り文字を立てず教外別伝・摩訶迦葉に付属す」云云、是は中天竺なり仏の御入滅は北天竺拘尸那城なり、涅槃経の一に云く「爾の時に閻浮提の中の比丘・比丘尼・一切皆集る唯尊者摩訶迦葉・阿難の二衆を除く」同経の三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属し給う久住することを得ず何を以ての故に一切声聞及大迦葉は悉く当に無常なるべし彼の老人の他の


寄物を受くるが如し、是の故に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし」云云、像法決疑経に云く「諸の悪比丘或は禅を修すること有るも経論に依らず、自ら己見を逐うて非を以て是と為し是れ邪是れ正を分別すること能わず、遍く道俗に向つて是くの如き言を作さん我能く是を知り我能く是を見ると、当に知るべし此の人は速かに我が法を滅せん乃至地獄に入ること猶箭を射るが如し」云云、弘決一の下に云く「世人多く坐禅安心を以て名けて発心と為す、此の人都て未だ所縁の境を識らず所期の果無ければ全く上求無し大悲を識らざれば全く下化無し、是の故に発心は大悲より起るなり」云云、天台の止観の五に云く「又一種の禅人他の根性に達せずして純ら乳薬を教ゆ体心踏心・和融覚覓若しは泯若しは了斯れ一轍の意なり障難万途紛然として識らず纔かに異相を見て即ち是れ道と判ず自ら法器に非ず復他に匠たるを闕く盲跛の師徒二り倶に堕落す瞽蹶の夜遊甚だ憐愍す可し」云云、弘決の一に云く「世人・教を蔑にし理観を尚ぶ者悞れるかな悞れるかな」方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・乃至・如是本末究竟等」云云、妙楽大師の金錍論に云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」云云、疏記の十に云く「直ちに此の土を観ずるに四土具足す故に此の仏身即ち三身なり」云云。

一、権実証拠の事

玄義の二に云く「則ち百法界・千如是有り束ねて五差と為す一に悪・二に善・三に二乗・四に菩薩・五に仏なり、判じて二法と為す前の四は是れ権法・後の一は是れ実法」云云、釈籤の二に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」云云、秀句の下に云く「定性と不定性は位の高下に依り成仏と不成仏は経の権実に依る」文句の九に云く「漸頓の益は虚なり」云云、記の九に云く「権を稟けて界を出るを名けて虚出と為す」云云、玄義の九に云く「化他の因果は仏菩提を致すこと能わず是の故に取て並べ用いず化他の権実も亦他をして極に至らしむること能わず亦取る